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徳増 浩司  アジアラグビー会長 1974年3月ICU教養学部教育学科(当時)卒業
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Q.ラグビーとの出会いについて聞かせてください。

今こうして、ラグビーワールドカップ2019組織委員会事務局長を経て、アジアラグビーの会長を務めていますが、あの時にICUでラグビーに触れる機会がなければ、今の自分はなかったと思います。

ICUでは第一男子寮(当時)に入寮しました。高校時代からラグビーには興味がありましたが、残念ながら体育の時間しかプレーする機会はなく、当時行われていた男子寮対抗のラグビー大会に向けての練習が、きっかけになりました。練習しているうちにますます興味が沸いてきた頃、当時数名しか部員のいないラグビー部に所属していた先輩小牧さん(卒業後電通に勤務)に、入部を誘われたのがラグビーを始めたきっかけです。部員がいなかったので、試合ともなると卒業生がメンバーとして参加していたのを、よく覚えています。

Q.大学生活の多くをラグビーに費やしていたのですか。

ラグビーでは、菅平の合宿など、忘れられない思い出がたくさんありますが、ラグビー以外にもいろいろな体験をしたいと思っていました。2年生のある時、宗務部の前に5月の連休に八王子市の児童養護施設のペンキ塗りのボランティアを募集しているポスター目に止まり、何か気になるものがあって参加しました。現場に行ってみると、いわゆる家庭崩壊児といわれる境遇の子どもたちがたくさんいて、少しでも自分が役立てるのであればと活動を続けているうちに、ある時、施設の人員が不足し、頼まれるままに"高卒資格"で職員になってしまいました。八王子の施設に住み込みで、ICUに通っていました。

実はここでも、こどもたちにラグビーを教えました。卒業論文は、「施設養護にみる日本の児童福祉問題」について、この時の実体験を中心に日本の児童福祉問題を提起しました。

Q.大学卒業後、新聞記者を経て、ウェールズに留学されていますが、経緯を教えてください。

学生時代に児童養護施設に勤務したことにより、自分の使命として、福祉関係の問題を報道し、世の中を変えなくてはいけないと思いました。それで、地元に密着した問題提起をしていた福岡の西日本新聞記者に就職しました。

ところが、新聞記者という仕事が、ものごとを客観的に報道するだけで、自分自身が具体的には何もしないということに気がついてしまいました。何年かしたある日、地元で高校生のラグビーを取材した時、選手と監督が目標に向かって一喜一憂している姿を見て、自分もそうした現場の輪の中に入りたいと強く感じたんです。そして、教師を目指す決心をし、新聞記者を辞めました。

そのちょっと前になりますが、1975年に花園ラグビー場で行なわれた日本代表対ウェールズ代表の試合で、ウェールズ代表の素晴らしいプレーに目を奪われ、一度ウェールズを訪ねてみようと思っていました。そこで、教師になる前にと考え、2週間ぐらいの予定でウェールズの首都であるカーディフを訪れました。そこで、自分でも信じがたい夢のような偶然の出会いが重なり、「ラグビーを学びに来た日本人」として、イギリスでも有名な体育教師を養成する大学であるカーディフ教育大学(現、カーディフ・メトロポリタン大学)の研究生になることができ、2年間コーチングを学びことができました。

Q.カーディフ教育大学で2年間コーチングを学んだ後、帰国を決めた理由は何ですか

ウェールズに滞在していたある日、ICUのラグビー部で1年後輩であった、加納正康氏から「茨城県に茗溪学園という中高一貫校が創設され、自分は英語科の主任として赴任することが決定した。校技がラグビーなので、ぜひ、徳増さんもここで中学生のラグビーを指導しませんか」という、誘いの手紙を受け取ったのです。

ウェールズの水が自分にぴったり合い、このままずっと住み続けたいとさえ考え始めていたので、正直帰国は迷いましたが、加納氏の熱烈な気持ちにより、帰国を決意しました。加納氏はなんと私が帰国する前にICUに行って教員資格を取るための履修手続きをしてくださり、私は帰国後半年ほどICUに編入して、無事に英語教師の資格を取ることができました。

Q. 茗渓学園では、ラグビー部創部10年目にあたる1989年に全国制覇を成し遂げていますが、どのような指導を行なったのですか?

1980年に茨城県の茗渓学園に英語教師として赴任し、すぐに創設間がない中学ラグビー部の監督を務めました。コーチングのスタイルはウェールズ流で、実戦形式の練習を多く行ないました。

ウェールズと日本のコーチングは、アプローチの方法が異なります。日本の場合、「練習の成果を試す場所」が試合という考えですが、ウェールズではまず試合をさせ、試合を通して課題を見つけ、それを直すのが練習、つまり「試合から学ぶ」という考えです。

選手一人一人、個性や持ち味は異なります。A君はこの部分に課題があるからこの練習、B君はまた違う部分に課題があるから違う練習というように、試合を通して個々の課題を把握し、それぞれに適したコーチングを行うのが、選手の力を一番伸ばす方法です。なので、皆で一緒に練習するという日本式の良いところも取り入れつつ、練習で間違いを直していくというやり方で指導していました。まったく伝統のない新設校であったこともあり、選手たちには練習方法が素直に受け入れられ、スキルが飛躍的に向上しました。

それともう一つ、茗渓学園ラグビー部では「エンジョイ・ラグビー」を目標に掲げていました。カーディフ教育大学のラグビー部に所属し、初めての試合で負けた後、がっかりしながらシャワーを浴びていたらチームメイトに"Did you enjoy the game?"って尋ねられました。試合に負けたのに何で「エンジョイ(enjoy)」なんだと思っていたら、次の週にウエイトトレーニングをしていたときにも"Did you enjoy?"と尋ねられ、その時初めて「楽しんだか?」ではなく、「全力を出し切ったのか?」ということだと理解しました。

茗渓学園でも、選手一人一人が常に全力を出し切ってプレーすることを目標にし、日々汗を流していました。

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Q.その後、日本ラグビー協会に勤め、ラグビーワールドカップを日本に招致されるわけですが、その道のりを教えてください。

1995年からは、日本ラグビーフットボール協会の国際&広報担当として勤務しました。私が協会で働きだした頃は、常勤スタッフは4人ぐらいしかおらず、海外との交渉などは全て自分が担っていました。当時の日本のラグビーは、世界のラグビーの蚊帳の外に置かれている状況だったので、日本側から常に情報を発信し、日本ラグビーをアピールし続けていました。そんな中、日本のラグビーをさらに発展させて世界にアピールするには、ラグビーワールドカップの日本招致が必要ではないかと思い始めました。

ちょうど2003年に朝日新聞に「新春ラグビーフォーラム」という新聞の企画があり、当時の協会専務理事が「何か新しいアイディアはないか?」と、私に尋ねてきました。私は「大きな夢として、将来、日本でラグビーワールドカップを招致するというのはどうですか」と返答したら、専務理事が実際にそうお話になり、翌日の紙面に掲載されました。慌てて国際ラグビーボード(IRB:International Rugby Board)に連絡し、日本でのラグビーワールドカップ開催の可能性を確認したところ、「ラグビーを世界に広める役割が日本にはあるので、開催は不可能ではない」と回答を得ることができ、協会全体も招致に向けて動き出しました。

この時の招致を目指していた大会は、第7回2011年大会で、ニュージーランド、南アフリカ、日本が開催に名乗りをあげていました。日本でのラグビーワールドカップ開催は、世界にラグビーを広げることと、「New Horizon」というスローガンを作り強く訴えたのですが、最終的にニュージーランドでの開催が決定しました。やはりラグビー伝統国でない日本での開催は無理なのかもしれないと、あきらめかけていたのですが、それから2年ほど経過した後、「日本にラグビーワールドカップを招致することは、世界にラグビーを広げるためだ」と再度招致活動を再開しました。

第7回大会の招致活動を行っていたときは、恐る恐るビジネスカードを渡すだけでしたが、その時の活動のおかげで、既に世界の人々に顔と名前を覚えてもらっていたので、2回目の招致活動はスムーズに進みました。その一方、今回も招致活動に失敗したら、二度とチャンスはないという義務感や使命感を強く感じていました。そして、幸いにも2009年7月に、第9回大会(2019)を日本で開催することが決定しました。

Q.世界をまたに活動されてきた徳増さんから見て、母校であるICUの学生・同窓生の特長は何だと思われますか。また、世界で活躍するために必要な資質などがあれば、教えてください。

ICUの同窓生は、常に何かを求めている人が多い気がします。今だから思うのですが、入学試験が単純に記憶力や知識を問う問題ではなのではなかったのも、ICUの教育が「問題を解決する力を養う」ことに重点を置いているためではないかと思います。物事を客観的に捉え、本質を見極めようとするところがICU生の素晴らしいところなので、革新的な仕事をする人が出てくるのだと思っています。

ICUの特長であるリベラルアーツも、ある物事や事象を一つの側面からだけで見るのではなく、周囲との関連で捉えたり、横串を通して全体を見てみる大切さを学び、これは今の自分にも非常に役立っていることだと思います。

また、海外の人は、どちらかというとあまり細かいところを気にせずに、大枠を見ながら進めながら考える傾向が強いのに対して、日本人は非常に繊細で、一つ一つの物事をきちんと石橋を叩いて渡るように慎重に進めていく傾向があります。どちらもよいところはありますが、世界と仕事をする上では、失敗を恐れずに、その時間・場所を「エンジョイ」する気持ちをもち、積極的に行動できることが何よりも大切だと思います。

<プロフィール>

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東京都立秋川高等学校卒。1970年、国際基督教大学教養学部教育学科(当時)に入学し、第一男子寮に入寮。当時開催されていた、寮対抗のラグビー大会に向けた練習に励むとともに、寮の先輩からの誘いにより、当時数名の部員しかいないICUラグビー部に入部。ラグビー部での活動を続けながらも、その後、在学中に、児童養護施設に住み込んでボランティア活動に励み、実体験に基づいた「施設養護にみる日本の児童福祉問題」と題した卒業論文を執筆する。

卒業後は、新聞記者となるが、数年後に教師を目指して退職。教師として勤める前に、花園ラグビー場の観戦したウェールズ対日本で心を奪われた、ウェールズのラグビーを肌で体験したいと、1977年に2週間ほどの予定で渡英。偶然の出会いが重なり、カーディフ教育大学(現:カーディフメトロポリタン大学)で研究生として、2年間ラグビーのコーチングを学ぶ。

1979年、ICUのラグビー部で1年後輩であった、加納正康氏の誘いにより、茗溪学園中学校高等学校で英語教師としてラグビーの指導にあたるため帰国。1980年茗溪学園中学校高等学校に赴任。1989年に全国高等学校ラグビーフットボール大会で全国制覇。

1995年から日本ラグビーフットボール協会勤務。ラグビーワールドカップ日本招致のために奔走し、ラグビーワールドカップ2019の招致に成功。現在は、アジアラグビー会長としてアジア諸国におけるラグビー普及に取り組む。