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2016年度文化功労者 岩井克人先生 インタビュー
「高度化する資本主義社会では、信頼と倫理により支えられる仕事が増えていく」

公開日:2016年11月24日

2016年11月、岩井克人・本学客員教授(メジャー:経済学)が、今年度の文化功労者に選ばれました。学術功績に加え、文化への功労を顕彰された岩井先生に、これまでと現在のご研究、それに、これからの社会をどのように考えているかをテーマに、インタビューを行いました。

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―― 岩井先生の、これまでの研究について教えてください。

2015年に出版した学問的自伝『経済学の宇宙』にも記しましたが、私の研究は経済学の主流から外れています。学界の中では成功していません。でも、学問をする人間としては、幸せでした。それは、主流派ではなかったからこそ、自分の好きな研究に没頭でき、経済学の枠組みを超える仕事も出来たからです。さらに、文学や芸術や思想についてのエッセーまで書く時間も持てました。それが、文化への功労という今回の顕彰につながったのだと思っています。

小学生から中学生のころは科学少年で、科学に関するものを読みあさりました。私が中学のころというのは1950年代後半、ちょうど創刊されたばかりの早川書房の『S‐Fマガジン』を面白そうだと読み始め、それが科学から文学への移行の足掛りになり、高校、大学時代は文学の世界にのめり込みました。大学進学を目前にして、科学か、文学か、進路に悩みましたが、その両方の要素を持つ社会科学を選び、当時は進歩的知識人であればだれもが学んだ「マルクス経済学」を専攻すると決めました。

ただ、大学入学後、マルクス経済学には疑問を感じるようになり、近代経済学に志望を移しました。良い先生に恵まれ、経済学研究を自分の仕事としようと大学院進学を志し、応募したのですが、1969年は東大紛争により大学院が閉鎖されていました。当時の東大には、宇沢弘文先生、小宮隆太郎先生、浜田宏一先生と、外国で活躍して帰国された先生がおり、海外で経済学を続けなさいと、推薦状を書いてくださいました。私は運よくマサチュセッツ工科大学(MIT)に合格しました。3人の同級生と共に、当時、思ってもみなかった海外留学の道を歩み出しました。

「初めから異端を志したのではない」

アメリカでは、MITの大学院で3年、カリフォルニア大のバークレーでポスドク1年、イェール大学の教員として8年、計12年を過ごしました。MITはアメリカ経済学の中心に位置しており、大学院ではポール・サミュエルソンやロバート・ソローにアドバイザーになってもらいました。博士論文を書いたころは「輝ける星」でした。そして、大学院時代に書いた主流派経済学の論文のおかげで、イェール大学で教えることができました。ところが、主流派経済学を理解して、主流派の理論を内部から、より厳密に追求していくうちに、その矛盾点を次々と見いだすようになり、次第に主流派経済学に疑問を感じるようになったのです。

主流派の教えと矛盾した結果を導いたとき、最初は自身の理論化が誤っているのかと悩みました。3、4年におよぶ長い逡巡の末に、「矛盾こそが真実だ」と発想の転換をしたことを、今でもはっきりと覚えています。若さの気負いもあって、主流派経済学をひっくり返す仕事をしようと決めました。そして、7年かけて『不均衡動学』という本を出版したのですが、アメリカの経済学会では受け入れられず、帰国しました。

なぜ、主流派経済学の中心にいながら、主流派ではないことを考えるようになり、矛盾を明らかにしようとしたのかというと、かつて、文学をはじめ経済学以外の本をたくさん読み、多様なものに触れてきたこと、アメリカの中で純血ではなく海外から来た留学生だったこと、一時、マルクス経済学などを学んでいたことなどが、大きかったように思います。もちろん、私以前にも同様の考えを持った経済学者はおり、例えばそれは20世紀最大の経済学者ケインズや、19世紀末から20世紀初頭にスウェーデンで活躍したヴィクセルといった人々です。彼らの仕事はもちろん私に大きな影響を与えました。

―― 岩井先生の見いだした矛盾とは、どのようなものだったのですか。

主流派経済学の中心的な考え方は、アダム・スミスの「見えざる手」の思想です。それは「資本主義社会とは、市場メカニズムが機能していれば、個人の自己利益追求が、社会全体の利益、ひいては豊かな社会の実現につながる」という思想です。極端なことを言えば、資本主義には倫理は必要ないというのです。これは、「よい社会をつくるためには、一人ひとりが倫理的でなければならない」という、キリスト教を含む伝統的な社会思想を逆転したという意味で、画期的な思想です。

ところで、「見えざる手」とは、市場における価格の調整メカニズムの比喩的な表現ですが、私は、主流派がその価格の調整メカニズムそれ自体は理論化してきていないことに不満を持ち、最初はその経済理論を内部から補強しようと思ったのです。しかし、その理論化のプロセスの中で、先ほど述べた「矛盾」にぶつかり、そして最終的に「市場を自由放任の状態にすると、不安定になる」という結論に至りました。

ここでの不安定とは、たとえば戦前ドイツのハイパーインフレや、2008年のリーマン・ショック、1929年の大恐慌のような事態です。ただ、そのような危機的状況は、歴史上もめったに起こるものではありません。では、なぜ現実の資本主義経済はある程度安定的であったのか?ここでも発想の転換をしました。それは、「見えざる手」の思想とは逆に、現実の経済には市場の円滑な動きを妨げるさまざまな不純物があるからだと。その中には政府の財政介入や中央銀行の金融政策が含まれます。反自由放任主義的な経済政策の必要性を示すことが出来たのです。

―― 今の研究テーマについて教えてください。

不均衡動学の基本的テーゼは、「資本主義経済とは貨幣経済であるから、必然的に不安定である」というものです。従って、私の次の関心は、「貨幣とは何か」に移りました。まず数学的な論文を英語で執筆し、1993年に日本語で『貨幣論』を出版しました。つい最近も、23年後の貨幣論というテーマで雑誌『WIRED』のインタビューを受けました。資本主義と貨幣についての私の考えは当時と変わっていませんが、新しい時代に合わせて考え直したり、考え直したことを発言したりしています。

「資本主義は純粋化した結果、不安定化している」

奇妙に感じるのは、グローバル化やインターネットの発達によって、私が『不均衡動学』や『貨幣論』に書いた世界に現実が近づいてきたことです。1980年代後半から1990年代初頭にかけて、ベルリンの壁とソ連が崩壊し、資本主義が一人勝ちとなりました。アダム・スミスの「見えざる手」の思想によれば、「世界を市場で覆い尽くせば、資本主義は豊かさと安定性を同時にもたらしてくれる」はずです。例えば労働市場が流動的になり、資本移動が自由になれば、すべてうまくいくはずだったのですが、リーマン・ショックが起こってしまいました。グローバル化それ自体が、「見えざる手」の壮大な実験で、リーマン・ショックは、その壮大な失敗だったのです。

―― 今後の社会をどう見ているのでしょうか。

いま私は、不均衡動学や貨幣論とは違った研究を主として行っています。それが「会社論」や、それに続く「信任論」です。発端は、法律誌に書いた英語論文です。会社について研究するうち、「会社とは不思議な存在だ」と気付いたのです。毎年、春学期にこの「会社論」をテーマとする『日本社会とビジネス』を開講しています。その授業の最初に、こう話すのです。

「会社は不思議ですね。実際は人の集まりにすぎない。だが、法律上は人として扱われる法人というものです。よく『会社は株主のもの』と言われますが、株主は、施設や設備の所有者でもなく、社員と雇用契約を結んでいるわけでもありません。『XX会社』という法人が、施設や設備を所有し、社員と雇用契約を結んでいるのです。会社は株主のものではないのです」。

次の問題として出てきたのは、「忠実義務」です。会社は、法律上は人ですが、現実には頭脳も肉体も持たない抽象的な存在でしかない。その会社が人として活動するには、その会社を動かす生身の人間が絶対に必要です。それが経営者なのです。しかも、経営者と会社との関係は契約ではあり得ない。なぜなら、会社の契約はすべて経営者が結びますから、その契約は経営者の自己契約になります。悪い経営者なら、自分にのみ有利な契約書をいくらでも書けてしまう。だから、経営者は自分の利益を抑え、法人としての会社の利益のみに忠実に仕事をするという「忠実義務」に縛られることになるのです。この忠実義務とは、「自分の利益を抑えて、他の人の利益のために仕事をする」という義務ですから、それはまさに「倫理的」な義務にほかなりません。

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こうして私は、資本主義の中に「倫理」の必要を見いだしてしまったのです。その結果、倫理とは何かについて研究しています。近代社会の物質的な基礎には資本主義がありますが、その資本主義の中心には会社があり、その会社を実際に動かす経営者は、忠実義務という倫理的義務に縛られている。アダム・スミスの「見えざる手」の思想が、ここでもひっくり返されたのです。

実は、この忠実義務とは、経営者と会社の間だけでなく、たとえば専門家と非専門家の関係にも必要です。両者の間には知識や能力において絶対的な非対称性があるからです。例えば私が病気になって医者に治してもらう時、専門家の医者は私の病気のことを私以上に知っています。医者は、自分の利益のために自分の知識や能力を使うのではなく、患者の命のために、忠実に医療に当たらなければなりません。それではじめて私は信頼して私の身体を医者に任せられるのです。

そして、資本主義が発達した高度知識社会では、技術と知識が複雑になり、世の多くの人間関係は、専門家と非専門家の関係になりつつある。それは、忠実義務という「倫理」の重要性がこれからますます重要になってくることを意味するのです。

「従来の学問領域からはみ出ることを考えざるを得ない」

私は学者ですから、倫理やイデオロギーに頼らず、すべて論理で示したいと思って研究してきました。しかし、こと会社なるものを研究するに至って、結果として論理的に「倫理」の問題を考えざるを得なくなりました。従来の社会科学の考え方を論理的に追及すると、どうしても学問領域からはみ出ることを考えざるを得ないのです。

ICUで教えたいと考えた最大の理由の一つは、リベラルアーツの大学だからです。主流派経済学批判を行う中で、異なる領域に踏み込まざるを得なくなり、自身の研究がリベラルアーツ的なものを含み始めたことにあります。リベラルアーツ・カレッジでは、それを正々堂々と教えられます。

実は、リベラルアーツの重要に気付いたのは、MIT時代にさかのぼります。大学院の同級生の何割かは、小さなリベラルアーツ・カレッジの卒業生でした。入学当初の彼らは専門知識に乏しく、数学が苦手だったりするのですが、その後の努力も相まって、博士論文を執筆する段になれば他の学生と何も変わらない。それどころか、バックグラウンドが広い人は考え方が面白いし、それが後の学問を助けることがあるのです。40歳以前なら、何年間か一定期間、集中して努力すれば、いつでも専門性を身に付けることが出来るはずです。学部時代は、いろいろな領域に触れることの方が重要だと思います。

ICUに着任したもう一つの理由が、国際性です。私は偶然、海外の大学院に進学し、欧米と日本を行き来するようになりましたが、英語で苦労し続けています。われわれの今の社会は、世界から切り離すことはできません。ICUは外国籍の教員も学生も多数おり、国際性のある大学です。私の苦しげな英語を聞いて、この国際性のある大学で勉強できることの幸せを、学生に知ってもらえれば幸いです。そして、私の講義が、国際的に活躍するであろう学生の将来に、何か役に立つことができればと願っています。

岩井克人 / IWAI, Katsuhito

1947年生まれ。東京大学経済学部卒業、マサチュセッツ工科大学Ph. D。イェール大学助教授、コウルズ経済研究所上級研究員、プリンストン大学客員準教授、ペンシルバニア大学客員教授、東京大学経済学部教授、日本学術会議会員等を経て、現在、国際基督教大学客員教授、東京大学名誉教授、日本学士院会員。著書に、Disequilibrium Dynamics (Yale University Press)、『ヴェニスの商人の資本論』(筑摩書房)、『貨幣論』(筑摩書房)、『二十一世紀の資本主義論』(筑摩書房)、『会社はこれからどうなるのか』(平凡社)、『資本主義から市民主義へ』(新書館)、『経済学の宇宙』(日経新聞出版社)など。ほかに論文やエッセー多数。日経・経済図書文化賞特賞、サントリー学芸賞、小林秀雄賞、M&Aフォーラム正賞を受賞。さらに、紫綬褒章、ベオグラード大学名誉博士なども授与される。