#平和 #リベラルアーツ #情報変革 #外交 #映画 #緒方貞子
このDialogueは2026年3月にICU三鷹キャンパスにて行われた。
なぜむき出しの暴力が止まらないのか。どうすれば平和は続けられるのか。リベラルアーツから世界を捉える
世界の平和に貢献できる若者を育てることをミッションとするICUは、「平和をつくる大学」として献学された。
社会の秩序が乱れる転換期に、リベラリズムは衰退すると言われるが、リベラルな秩序が崩れた現代、果たしてリベラルアーツは世界平和をつくりだすことはできるのだろうか。
(注)本文中では敬称を略しています
毛利(モデレーター) 寛容が普及すればするほど、リベラルの衰退が続いてしまう「リベラルのジレンマ」が指摘されています。それは本当に起きているのでしょうか、なぜ起きるのでしょうか。例えば多様性についても、政治的、経済的あるいは文化社会的なところも理解しないと平和は続けられなという意味では、学際性を重視するリベラルアーツは非常に重要です。ところが、リベラルアーツは一種のエリート教育として扱われていて、むしろ意識の高い人たちの特権で排他的なものとして分断を生んでいるとも言われます。そういった矛盾構造も踏まえ、どうすれば平和は続けられるのか。特にリベラルアーツとの関わりからご一緒に考えてみたいと思います。
Paragraph 01
終わらない地域紛争と「国際秩序」の機能不全
毛利 ガザ、そして最近のイランの戦争を踏まえて、どうしてこういった状況になっているのか、現状についてのお話を伺えればと思います。藤原先生、いかがでしょうか。
藤原 今、まさに戦争が展開しています。 一つは、ロシアのウクライナ侵攻に始まるウクライナ戦争、そしてもう一つは、アメリカ、イスラエルの先制攻撃によって始まったイラン攻撃、これは現在では第三次湾岸戦争とも呼ばれています。イラクのクウェート侵攻に始まる第一次湾岸戦争、そして2003年にイラクに多国籍軍が介入し、今回が第三回の湾岸戦争です。
戦争が起こっていると申し上げましたが、世界戦争は起こっていません。第一次世界大戦、第二次世界大戦のような大国がお互いに相手を全面攻撃する戦争は起こっていないのです。世界戦争に発展する場合には、共倒れになりますから、逆に戦争を早期終結しようというインセンティブも働きます。米ソ冷戦の時代はまさに核戦争にエスカレーションする可能性があるために米ソが核戦力の使用は思い留まる状態でしたが、地域介入は行われた。朝鮮戦争もベトナム戦争もソ連が侵攻したアフガニスタンの戦争でも、世界戦争ではありませんでしたが、長期間、多くの犠牲者を生み出しました。
現在は皮肉なことに、イランに対するアメリカ、イスラエルの攻撃が原油の供給を阻み、そのために先進工業国を含む世界的な影響が広がる懸念が生まれたことから、逆にその戦争の継続を見直すべきではないか、停戦すべきではないかという議論が、侵略した当事者であるアメリカの政府の中でも生まれてきた状態です。
仮にアメリカが停戦に動いたとしても、イラン政府、そしてイスラエル政府の抗戦意欲は衰えないと、私は思います。 とすると、世界戦争にはならないけれども、その地域では大変な犠牲者を伴う戦争が続いてしまう状態になる。そして停戦合意が結ばれた後も戦闘が実質的には継続する可能性があります。ガザの状況を見ても明らかだろうと思います。
毛利 吉川先生は中東外交をご担当されてその後、国連大使を務められたわけですが、今の状況は安保理理事国(国連安全保障理事会常任理事国)*1が攻撃している状況です。どのようにご覧になっていますか。
吉川 第二次世界大戦が終わってから、長い間、国連憲章を一つの共通の考え方として、紛争を予防しよう、そして一旦始まってしまった紛争もこれによって何とか解決しよう、そういった コンセンサスがあったと思うんですね
ところが、2022年のロシアのウクライナ侵攻というのが一つの重要な契機になり、その後、イスラエルによるガザ侵攻、そして今度はアメリカとイスラエルのイラン攻撃という、安全保障理事会の中でも特権を与えられた常任理事国であるロシアとアメリカが次から次に責任を放棄したような行動をとっているのは非常に問題だと思います。戦争がスタートするのを防がないとといけないという重要な責任を担っているにもかかわらずです。
ロシアのプーチン大統領の言動をずっと見ていても、彼は自分たちのしていることは国連憲章違反ではなく、逆に憲章第51条*2に則っていると合法性を主張しています。アメリカのトランプ大統領はそれとは異なり、自分たちは国際法には縛られないと言っており、全く取り付く島がない。
では、このような事態をどのように解決できるのか。もちろんアメリカ国内でも反対意見もあるし、政府内で辞表を叩きつけた人もいる。アメリカの市場(マーケット)の力にもヒントがあるような気がします。そういう点では アメリカとイスラエルのイラン軍事攻撃では、プレミアム*3で非常に悪い影響を受ける国と地域が拡大してしまっています。どう終わっても後遺症が残る厳しい状況です。
※1…安保理理事国:国連安全保障理事会は15カ国で構成される。常任理事国5カ国(中国、フランス、ロシア連邦、イギリス、アメリカ)と、総会が2年の任期で選ぶ非常任理事国10カ国である。(国際連合広報センター:https://www.unic.or.jp/info/un/un_organization/sc/)
※2…国連憲章51条:この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当って加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持又は回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基く権能及び責任に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない。(国連広報センター:https://www.unic.or.jp/info/un/charter/text_japanese/)
※3…経済や投資といった面における不確実性やリスクに対する上乗せ料金や報酬
Paragraph 02
「リベラルのジレンマ」とエリートへの不信
毛利 国際社会では第二次世界大戦後、リベラルに自由貿易を推し進める一方で、国内的には経済的に国民の生活を守る福祉国家というバランスをとってきました。それが今、アメリカを中心に崩れて始めている。アメリカのリベラルが崩れた要因として、「多様性を認めようとすると、かえって対立や格差が生まれてしまう」という「リベラルのジレンマ」が生じていることについて、ジェンダー研究ご専門の生駒先生の視点でどうご覧になりますか。
生駒 民主党政権の時に、DEI(Diversity, Equity & Inclusion)*4を積極的に取り込む一方で、資本主義は手放さず、一部の資本家が優遇される社会システムになってしまったという指摘があります。今のような両極化が起きて、互いに非難し合うような社会になってしまったのは、White Fragility*5という書籍にもありますが、米国に何世代も前から暮らしている人々が、相対的貧困状況に陥る中で、自分たちがかつて持っていた財や権利を移民や新興の人々に「奪われた」という感覚を、実態以上に強く持ったことに起因していると思います。
毛利 第二次世界大戦後、あるいは冷戦後に至るまで、一つのナラティブ(物語)として存在した「デモクラティック・ピース(民主主義による平和)」、そして「コマーシャル・ピース(自由貿易による平和)」。これらが実は格差の拡大を招き、現在、市民の側から「グローバリスト・エリート」*6への対抗という動きが出てきているのだと思います。
懸念すべき点として、リベラルアーツさえもが、一部では「エリートのための教育だ」という見方をされるようになっています。こうした現状をどう捉えるべきでしょうか。
生駒 おっしゃる通りですね。かつて国連が機能していた頃というのは、「educated few(教育を受けた少数の精鋭)」こそが世界秩序を守る番人で、一定のリスペクトを世界中から受けていたと思います。
ところが今の時代、その信頼が崩れてしまいました。Educated fewは結局のところ「教育を独占してきた人たち」なのだと敵意を向けられ、国連もまた特権を持つ「アンシャン・レジーム(旧体制)」として見なされるようになってしまった。これに対してトランプ氏の「国際的な決め事からアメリカは脱退する」と言い切る姿が、ある種のかっこいいヒーロー像として、拍手喝采で迎えられている。これまで「善」とされてきた民主的な資本主義社会が限界を迎えています。その歪みは格差の広がりだけでなく、環境破壊という形でも現れていますね。大国が資本を投下して発展を遂げる中で、地球自体が危機に瀕している。一方で発展途上国はリソースを提供する側に回り、自分たちの発展は遂げられない。こうした矛盾が噴出する中で、人々は「これまでの秩序はおかしい」と気づき始めたわけです。
もう一つは情報変革の影響です。X(旧Twitter)やFacebookなどの登場で、情報の質が変わってしまいました。昔は出版にしても、一部の教育を受けた人たちが番人となって「どの文献を世に出すか」をコントロールできていました。それはある意味、情報の質の維持にもつながっていたと思うのですが、今は誰もが何でも言える。これは民主的な動きのようでありながら、実際には玉石混交の、フェイクを含む凄まじい情報が氾濫し、誰もコントロールできていない状況にあります。
だからこそ、今リベラルアーツの役割が問われています。確かに昔は「educated few」を作るための教育だったかもしれませんが、現在の民主主義の失敗を見るにつけ、この「uneducated(教育から取り残された人々)」をいかに教育に巻き込むかが、極めて重要だと思うのです。こういった層が置き去りにされている限り、人々の「奪われている」という感覚、つまりルサンチマン(ressentiment)*7は溜まっていく一方で、暴力的発散に向かってしまいます。
リベラルアーツ教育の役割はますます大事になりますが、それをどう普及させていくか。それが今、大きな課題ではないでしょうか。
※4…DEI:Diversity(多様性)、Equity(公平性)、Inclusion(包括性)。誰もが公平に尊重され、機会を与えられる環境を目指す指針。
※5…White Fragility:人種差別の問題を扱ったロビン・ディアンジェロの著作。
※6…グローバリスト・エリート:世界的に政治や経済に影響を持つ層、一方で富を独占する富裕層という側面を持つ。
※7…ルサンチマン(ressentiment):フランス語で憤りや怨恨を意味する。弱者が心にため込む劣等感や怨念を表す。
Paragraph 03
リベラルアーツ教育が社会にもたらす価値
毛利 もともとリベラルアーツは、いわばアンシャン・レジーム(旧体制)的な神学・法学・医学に対し、そこから思考の自由を広げたという意味で、一つの「対抗勢力」として誕生したものでした。
教育は平和への一つの答えではないかと思います。もし平和を保つための均衡が続かないのだとしたら、私たちはどう振る舞うべきか。その点について、どのようにお考えでしょうか。
藤原 教育とナショナリズムの関係を考えた場合、リベラルアーツは明確に世俗主義の立場によるものであって、宗教ともナショナリズムとも距離のある概念です。これは民族の否定ではなく、Nation(国民・民族)や国境を超える考え方を見出すことが重要だという考え方ですね。かつてアメリカでリベラルアーツが育っていった背景にも、『アメリカだけではなく、ヨーロッパも直視しなければならない』という、大西洋コスモポリタニズム(世界市民主義)がありました。
現代に即して言えば、ユネスコの考え方ですね。自分たちも国際社会の一員であり、他者を見て共存し、対話しなければならない。運動会の万国旗を見て「世界には色々な場所があるんだな、その中に私たちがいるんだ」と感じるような感覚――これが教育の一つの側面です。
しかし、教育には、歴史的にはもう一つの、そして正反対の役割があります。国民教育、すなわち「国民の一員である」という意識を国民に持たせる教育ですね。近代日本の普通教育の始まりが国民を越えるのではなく、国民意識を持たせることを目的にした教育、国民教育であったことは否定できないでしょう。言語の共通化、歴史の共有、そしてこれらが国民軍の創設と一体となっていく。そこでは教育と軍隊は不可分でした。日本にばかりでなく、インドネシアも、多民族国家アメリカも同様です。アメリカの場合、20世紀初頭が中心ですが、移民が増えたからこそ「アメリカ人とは何か」という概念を共有せねばならないという切迫感から、アメリカニズムが教育を通じて広がっていきました。そしていま、アメリカの教育はアメリカニズムに大きく戻ろうとしています。教育は悪い言い方をすれば「俺たちが最高だ」という一体感やネイティビズム(排他的自国至上主義)を作り出す危険を常に孕んでいます。
それではいけない。国民教育に向かう可能性があるからこそ、リベラルアーツの「他の見方がある」と知る教育の必要性が、かつてないほど高まっているのです。
毛利 なるほど。リベラルアーツは、国民教育ではなく「市民教育」であり、複眼的に全体を見るということですね。 リベラルアーツにおいて、普遍的なものとネイティブ(ナショナル)なものをどう捉えるか。ICUの図書館には内村鑑三文庫があり、『代表的日本人』なども入っています。内村は「2つのJ」、すなわちキリスト者でありながら日本への愛国心を持つ「Japan(日本)」と「Jesus(イエス・キリスト)」を掲げました。リベラルアーツは「個」を重視しますが、一方で「個とは全体」という考え方もあります。リベラルアーツ的な視点から、そのあたりをどうご覧になりますか。
生駒 個と全体が矛盾するかと言えば、確かに矛盾するところはあると思います。リベラルアーツ教育を受けることで、個人としての知恵も力もつき、世の中で所謂成功者になることもできるかもしれません。
しかし、そこで終わってしまったら、リベラルアーツの教育としては失敗だと思います。やはり、得た力や知識をいかに世の中のために使っていけるか、が重要だと思うのです。ただ、そのためには「個」がしっかりと力を持つというプロセスをクリアしないと始まらないので、そこのバランスがとても難しい。
ともすれば、人間は利己的な動物ですので、いかに自分を強くするか、豊かにするか、という方向ばかりになりがちです。だからこそ、「あなたたちは非常に恵まれた状態にあり、恵まれた教育を受けている。それを世界のために使ってほしい。もっと恵まれない人のために使ってほしい」ということを常に伝え続けなければならない。そこが私たちの教育の意味なのだと考えています。
自己を時には犠牲にする、それが自らできるかどうかが問われるのだと思います。
Paragraph 04
対話(ダイアログ)と調整がもたらす「51対49」の外交
毛利 吉川先生は、ICUのリベラルアーツ教育で学ばれた後、外交官として国益を代表しながら、国連大使として国連全体を俯瞰するという経験をされました。そういったお立場からは、今の話をどうご覧になりますか。
吉川 キーワードは、やはり「ダイアログ(対話)」ですね。いかにして対話を成立させるかという点に尽きます。 毎年9月の国連総会では、一般討論演説(ジェネラル・ディベート)が行われます。しかし、そこで何が議論されているかと言えば、実態は百数十カ国による「モノローグ(独り言)」の積み重ねです。決してディベートにはなっていません。
なぜなら、彼らが演説で話しかけている相手は、会場にいる各国の代表ではなく、自国の国民だからです。「わが国の外交政策はこうだ」「国連を使って何を成し遂げるか」という身内向けのアピールをしている。そこは注意して見る必要がありますが、実務において本当に必要なのは、やはり「ダイアログ」の部分なのです。
例えば、私が国連大使時代の大きなテーマであった北朝鮮の核実験に対する同国への制裁決議をまとめる際、重要だったのは北朝鮮を代弁する中国とのダイアログでした。当時は北朝鮮自身が交渉の舞台に出て来ませんでしたから、「どの辺りで事態を落ち着かせられるか」を中国と水面下で話し合う必要がありました。
北朝鮮が核実験をした以上、何らかの「落とし前」をつけなければならない。その時に、北朝鮮に代わってディール(取引)ができるのは、当時は中国でした。その中国とどこまで合意できるか。中国が北朝鮮に対して「この辺りで手を打とう」と言える地点を探る。こうしたダイアログができない限り、いつまで経っても出口のない議論を繰り返すことになります。
なぜダイアログが必要かといえば、結論を出したい時には必ず「利益調整」が発生するからです。ある決定によって不利益を被る者、利益を得る者がいる。それは表舞台で行われる議論ではありませんが、「本音はどこか」「落としどころは何か」を探らなければならない。それぞれの代表が国に帰った時に、「自分はこれだけの成果を勝ち取ってきたんだ」と国民に示せるものがない限り、合意は成立しません。
かつてはこうした調整、つまり「行司役」をすることが、P5(国連常任理事国)*8の核であるアメリカの仕事でした。しかし今は、その行司が世界にいなくなってしまった。
私もかつてイランといくつか交渉しましたが、彼らは非常に賢い。感情に任せて突発的な行動をすることはありません。決して単純な独裁国家ではない。そこには複雑な組織があり、聖職者の中にも様々な権力争いがありますが、イスラム国家という「国体」を守るという一点においては一枚岩です。ですから、イランの政権を倒そうとすることは、イラクのサダム・フセインやベネズエラのマドゥロのケースとは全く別のことであり、非常に困難だと私は思います。
毛利 外交もまた対話であるということですね。吉川先生のお言葉で印象的なのは、「外交は相手の顔を立てなければならない。常に『51対49』でいいから勝ち続けることがポイントだ」とおっしゃっていたことです。
吉川 そうです。相手にも「51対49で自分が勝った」と思わせた状態で帰ってもらわなければならない。もし相手が「49(負け)」だと感じたら、メンツが立たず、国に帰れないわけですよ。外交に「一人勝ち」などというものはない。そのことを、大きな国の指導者こそが、肝に銘じておかなければならないのです。
毛利 現在のトランプ政権の動きは一過性のものかもしれませんが、世界全体がナショナリズムに傾倒している状況、これは長期的な潮流なのでしょうか。それとも、また以前のような形に戻るのでしょうか。世界が変化していく中で、私たちはその時間軸をどう捉えるべきだと思われますか。
吉川 それは地域によって異なる気がします。アフリカやアジアの貧困国、あるいはラテンアメリカや太平洋の島々では、国連に対する評価が非常に高いのです。なぜなら、自国だけで結果を出せない問題について、彼らは他国とグループになって国連にその要求をぶつけるからです。経済問題であればG77*9として、環境問題であれば島嶼(とうしょ)国として団結して動くのです。
一方で、アメリカや日本、ヨーロッパの一部の国々では、「国連は一方的に拠出金を出すだけで、見返りのない組織だ」という認識が広まってしまっています。特に日本はその傾向が強いように感じます。
しかし、途上国の視点に立つと、その評価は昼と夜ほどに一変します。彼らは国連に多大な期待を寄せており、その期待の一部には「日本は国連を強力にサポートしてくれている」という日本への信頼も含まれています。こうした世界の「からくり」を知ることこそが、多角的視点を持つリベラルアーツで学ぶ意義に繋がるのではないでしょうか。
毛利 「同じものでも、立場によって見え方が異なる」という点は非常に重要ですね。かつて私の卒論指導生が、ルワンダ大虐殺をテーマにした映画『ホテル・ルワンダ』(2004年)と『ルワンダの涙』(2005年)などを分析したことがあります。これらは同じ事件を扱っていながら、誰を「悪役」として描くのか、どの国で制作され、誰が観て、どのような興行成績を収めたのかが、作品によって全く異なります。一つの事象を多角的に見る視点は、まさに今求められているものだと思います。
※8…P5:国連安全保障理事会(安保理)において拒否権を持つ5つの常任理事国(Permanent 5)の略(中国、フランス、ロシア連邦、イギリス、アメリカ)。
※9…G77:G77(Group of 77)は、国連において結成された最大の途上国グループ。1964年結成当時の加盟国が77カ国。現在の加盟国は100カ国を超える。先進国(G7など)やP5(常任理事国)に対して途上国の利益を図る。
Paragraph 05
世界や平和を読み解くための座標軸ともなる映画とは
毛利 話題が変わりますが、何か平和の問題を考えるときに、見ておくといい映画などはありますか。
生駒 毛利先生のお話を踏まえて、『007』シリーズが興味深いと思います。初期作品から遡って観ていくと、時代の変遷が如実に表れていて非常に興味深いです。かつて『007 カジノ・ロワイヤル』(2006年)でジュディ・デンチ(Judi Dench)演じるイギリス秘密情報部(MI6)の局長Mが「冷戦が恋しい(Christ, I miss the Cold War.)」と漏らしたように、冷戦時は「敵」と「味方」の境界が明確であり、それゆえのある意味安定した世界秩序が存在していました。しかし現代では「敵」「味方」がはっきりせず、内部の不満分子がある時「敵」として出現します。『007』シリーズもそれを反映していて、そうした政治背景の変化と共に、ボンドガールの描かれ方に象徴される「女性像」の変遷を辿れる点も、このシリーズの大きな魅力ですね。
毛利 それに関連して、私も印象に残っている映画があります。キューバ危機を描いた『13デイズ』(2000年)という映画の中で、フルシチョフによるミサイル配備に対し、ケネディが大統領として海上封鎖を断行するシーンです。その際、マクナマラ国防長官が放った「これは、今までにないフルシチョフとJFKの対話(ダイアログ)なんだ」というセリフが非常に印象的でした。軍拡競争やミサイルの応酬そのものが、実は一種の『対話』であると捉えていたのは、興味深いですね。
藤原先生は映画についてもたくさん書かれていますが、今見ておくべき作品はありますか。
藤原 戦争について聞かれるとき、よく取り上げてきたのはスタンリー・キューブリックの『博士の異常な愛情(Dr. Strangelove)』(1964年)です。ソ連の書記長とアメリカの大統領が電話で話す有名な場面がありますから、そこだけでもご覧いただきたい。
藤原
これは核兵器でお互いに脅し合う時代、キューバ危機で頂点に達したあの時代をターゲットにした作品です。キューブリックは最初、これをシリアスに撮ろうとしたのですが、どうやっても真面目に受け取られない。あまりにも現実が途方もないので、あえてブラックユーモアにした。そのおかげで映画として成立しているのですが、一方で「どう見たらいいのか分からない」不思議な映画になっています。
今のアメリカを捉える視点として挙げるなら、ポール・トーマス・アンダーソン監督の『ワン・バトル・アフター・アナザー』(2025年)でしょうか。1960年代から70年代初め、キング牧師やロバート・ケネディが暗殺される混乱の中で、差別撤廃の運動が高揚した時代の空気感を現代に持ってきた作品です。
アメリカはずっと同じ極端なところを振り子のように揺れ続けているのか、それともゆっくりと変化しているのか。私は「振り子説」なんです。フィクションとしてそう作られている面もありますが、あえてこの物語を現代に持ってきたのは、観客が「繰り返しているな」「同じ問題が残っているな」という感覚を共有できるからこそ、レオナルド・ディカプリオまで登場する商業映画として成立するわけです。
最後にもう一本だけ。イラン映画でありながらイラン本国では公開されていない『シンプル・アクシデント』(2025年)という作品です。日本では5月に公開されます。監督のジャファル・パナヒは、イランで映画撮影を禁止されて『これは映画ではない』(2011年)という題名で映画を撮ったりしている人です。彼の映画はイラン社会の閉塞感の中でどんどん暗くなっていきました。この新作では「イラン政府にひどい目に遭わされた人が、復讐のためにはどのような手段が許されるのか」という問いを立てています。パナヒ自身の物語にもつながる、非常に奥行きのある作品です。5月公開です。ぜひ、ご覧ください。
毛利 吉川先生は、小説で遠藤周作さんをよく挙げられますね。?小説家では、遠藤周作がお好きですね?
吉川 遠藤周作の小説では、仙台からスペイン経由でローマまで行って時の教皇に会った支倉常長の人生を描いた『侍』が好きです
いろいろな国に赴任しましたが、どこへ行っても意識していたのは、「昔ここに日本人が来たのだろうか」ということです。外国との関係がほとんどなかったはずの時代に、どういう日本人がここに来たのだろうと。
例えばスペインのコリア・デル・リオという町に行くと、「ハポン(Japón)」という姓の人が数百人もいるんです。彼らは「自分たちは支倉常長の一行が現地に留まって結婚して生まれた日本人の子孫だ」と信じている。1600年代の話が今の彼らのアイデンティティになっている。タイに行けば山田長政の足跡があり、イギリスにも江戸時代に名もなく死んでいった日本人の墓がある。そういうものに触れると、長い歴史のどこかに自分もいるんだな、と思います。
外交に携わる人は歴史を学びますが、アメリカの国民は自国の歴史をどれほど知っているのでしょうか。例えば1979年の在イラン米国大使館占拠事件。その裏で、共和党は民主党政権を倒すためにイランと裏で交渉し、のちの「イラン・コントラ事件*10」へと繋がっていく。レーガン大統領の就任式の日に人質が解放された背景には、イランと共和党の間に「貸し借り」があったはずです。9,000万人の人口を有し古い文化を持つイランを軍事攻撃するに当たっては、過去の歴史から学ぶことがあったのではないかと思います。
※10…イラン・コントラ事件:1980年代、米レーガン政権が禁輸対象のイランに武器を売り、その利益を議会が禁止していたニカラグアの反共ゲリラ『コントラ』の資金に流用した秘密工作事件。法の支配の逸脱として批判された。
Paragraph 06
リベラルアーツが導く知の解放と自己発見
毛利 順天堂大学の国際教養学部では、社会科学だけではなく医療などと合わせた新しい分野を開拓されていますが、私たちはどれほど多くの「複眼」を持つべきなのでしょうか。あるいは、これからのリベラルアーツ教育に新たなコースプログラムを作るとしたら、どのような提案をされますか。
藤原 リベラルアーツという言葉自体が、それが一つの「ディシプリン(専門分野)」ではないことを示しているわけですね。当然ながら、様々な学術分野を横断することが前提となっている。しかし一方では、学術研究はディシプリンによって発展していく。ここに根本的な矛盾があるわけです。だからディシプリンの教育を受ける前に、まず様々な分野を勉強すべきだということであれば、専門課程の前提となる一般教養としてリベラルアーツを置くこともできます。
しかし、順天堂大学の国際教養学部はその考え方ではありません。むしろ「国際教養」という視点自体に意味がある。国境を越えて考えるということです。他の様々な社会が存在する、それは知らなかったけれども、言語の習得も含めていろいろな形で経験することが可能になる、そのような機会を私たちは準備します。知ることによって、自分が自由になるということなんです。
私たちは狭い世界の中でいろいろなことを自分で諦めて我慢して、自分に与えられた拘束が当然だと思っているかもしれない。それを違う空間を知ることによって変えることができるんだ。境界を越えるというのは、結局のところ「自己発見の物語」なんです。自己発見であるとともに、それは当然ながら他者の発見になりますから、自分と他者を含む空間を考えていくということになると思います。
吉川 私は高校生の時に1年間アメリカに留学しました。外務省に入ってからは2年間スペインに留学しました。いずれも自分一人でそれまでの生活とは全く違った新しい世界に入りました。学生諸君には、周りに自分を知っている人がいない場所に行って、自分を発見するという経験を是非してもらいたいと思います。そこでの行動から「こういう部分が自分にあったんだ」と知ることがきっとあるでしょう。パフォーマティビティ(行為遂行性)の良い機会ですね。
生駒 人間はしばしば「自分はこうである」という考えのもとで自分の言動を縛ってしましますが、パフォーマティビティの考え方を活用すれば、新たな言動を積み重ねていくことで新しい自分を作っていくことが可能です。全く違う文化圏・社会圏に行くと、固定した自己観や積み上げてきた自分というのを崩せるんです。リベラルアーツに通ずる自己の「解放」が起きるのですよね。
毛利 アンラーン(Un-learn学んだことを解き放つ)して、リラーン(re-learn再学習)しなきゃいけない。ぜひリベラルアーツで自分自身を解放して、社会も解放して、という感じですかね。
生駒 私が今、ICUに演劇を取り入れたいと思っているのはそういうことなんです。身体知というのも、すごく大事。役を演じることによって、今までの自分のパフォーマンス(振る舞い)を変え、違う自分を発見できる。
毛利 演劇、文学や映画など、言語化できない領域や身体を通じた発見というのが重要ということでしょうか。
Paragraph 07
AI時代と自立した「個」
毛利 反知性主義とか、あるいはフェイクな情報が溢れる中で、リベラルアーツは歴史的な転換期に見直されてきたと思います。今のAI時代といった文脈で、新しい知を再構築する際に、どうフェイクを見分けるかということを含めて、何が重要でしょうか。
吉川 重要なのは「批判する力」だと思うんですね。ICUでは毛利先生と9年間「国際関係ディベート」の授業を担当しましたが、相手の言っていることに真実があるだろうかと疑ってみる。読んだことは本当かなと疑ってみる。これは自分の主張に対して反論された時にどう返すかという能力に繋がりますね。 日本の組織の中では、もう少し「批判する力」が必要だと思います。私の経験した役所の世界というのは、上下関係が厳しかったです。そういう時代でしたから、上司に意見を言うのは、勇気と信頼関係が必要でした。
藤原 アカデミックな世界では、自分の指導教員に「違うんじゃないか」というのは、当たり前であるどころか、それが言えなかったら、若手研究者としてはやっていけない。「知ることは自由になること」と、まず強く訴えておきたいと思います。
そして大学で学ぶということは、知ることで自分をさらに自由にしていく空間であり、機会であると思います。その時にいろいろ違うものに出会うわけですね。違う社会、違う文化、違う言語、違う考え方。そうすると、これまで自分が生きてきた安全な空間を揺るがされます。怖いと思いませんか。だから相手を排除しようとするのはある意味当たり前です。違うものに出会った時の生物の最初の反応は恐怖であり、排除や差別、あるいは笑いはすべてその恐怖と結びついて生まれてくる。そこでたじろがないためには、むしろ自分が自立していなければいけない。
自分が誰かという確信を持っていれば、違うものを前にしてもそれを受け止めて、むしろ知ろうとするだけのゆとりを持つことができる。すごく一般的なことですが、このプロセスを経ることで、自らを閉じ込める小さい檻を解き放って「もっと広い世界を知ること」と「自分を知ること」がつながってくる。それがリベラルアーツであるとともに、実は教育はそういう過程だと思っています。
生駒 教育で得られる「知」で自分をどんどん自由にしていく。確かに今藤原先生がおっしゃったように、異質なものに出会ったり、一見自分を批判しているように聞こえる意見に出会った時に、拒絶したり、とりあえず相手を攻撃するというのは、弱い人間がやりがちなことですね。ICU生も、最初にクリティカル・シンキングについて学ぶと、その本質を履き違えて、1・2年生の頃は、とにかく相手を批判して、自分はクリティカル・シンキングができていると思いがちです。でも3・4年生になっていくと、「もしかしたら自分の方に偏見があるのかもしれない」。そういうことに気づき始めて、自分自身の考えをクリティカルに見るようになっていく。この過程がとても重要だと思います。そのためには、いかに多くの異質な意見に触れるかが重要です。批判を恐れず、自分の殻を破って、今まで慣れ親しんだことのない場所に自ら進んで出ていくことでもっと自由になれる。そういったことを私たちは示していく必要があると思います。
【対話を終えて】
今回の対話の直前の打合せで、吉川元偉元大使と藤原帰一先生は緒方貞子先生*11との思い出を語られた。かつて緒方UNHCRの下で勤務されたアイリーン・カーンさん(元アムネスティー・インターナショナル事務局長)が来日された際、彼女が緒方さんから学んだ言葉「正しい質問をすれば、必ず正しい答えが見つかる」を紹介していた。今回の企画のモデレーターとして、何が「正しい質問なのか」を常に念頭におきながら対話を進めた。うまく「正しい答え」を引き出せたか分からないが、リベラル秩序が崩れる中でのリベラルアーツの意義が浮き彫りになるように努めた。(モデレーター:毛利勝彦)
※11…緒方貞子:(1927–2019) 国際政治学者、日本人初の国連難民高等弁務官(UNHCR)。独立行政法人国際協力機構(JICA)理事長、国連人権委員会日本政府代表など。1965年から1979年にかけてICUでも教鞭を執り、国際関係学や外交史を講じた。
対話の余談
緒方貞子氏との思い出
- 藤原
-
緒方先生は本当に尊敬する方でした。机上の空論を鋭く忌避される方でした。最初、高原孝生先生*12が「藤原帰一君です。軍縮を研究しています」と紹介してくれました。違うのに(笑)。緒方先生は「軍縮だったら、いつまで経っても勉強していられるわね」とおっしゃって、去って行かれました。
素晴らしいと思いながらも、実は「先生それ違いますよ」という気持ちも強くありました。「いつまでも勉強していられる」つまり「実現するわけない」というのは、多分違うという強い確信があった。ただ、この時にはもう「参った」という感じでした。心から尊敬しました。
- 吉川
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私はICUで緒方先生の外交史を履修して以来、お亡くなりになるまでの50年のお付き合いでした。一生仕事をされた方でした。UNHCR(国連難民高等弁務官)に就任された時はもう60歳を過ぎておられました。JICA理事長に就任されたのは、76歳でした。
私が国連代表部公使として赴任するときに、「吉川君、国連には2つあるんですよ。安全保障理事会のように政策を決める国連。それから私がやっている、現場で現状を変える国連」と。「あなたはその1番目の国連にずっと浸かっていたらダメよ。2番目の国連がどうすれば動けるかをファシリテートする、それがニューヨーク(本部)の仕事ですよ。だからグダグダやってたらダメ」と。それでご本人は現場に出かけて行かれる訳です。
緒方先生が初めてUNHCRとして安保理で発言された際、綺麗で分かりやすい英語でお話しされると、内容的にはかなり厳しいきついのに、みんな「なるほど」となります。日本語でも英語でも、誰にも真似できない上品さをもってお話をされる。そういう特別な才能があったと思います。
※12…高原孝生:(1954–) 国際政治学者、明治学院大学名誉教授。専門は平和研究、国際機構論。
PROFILE
吉川元偉
元国連大使
国際基督教大学特別招聘教授。1974年ICU卒。同年外務省入省。スペイン大使、経済協力開発機構(OECD)日本代表部大使、アフガニスタン・パキスタン担当特別代表を歴任。2013年より16年まで国際連合日本代表部大使(常駐代表)を務め、日本の安保理非常任理事国選出などを主導。専門分野は外交・安全保障、国際組織論。2017年より現職。
藤原帰一
国際政治学者
東京大学名誉教授、順天堂大学大学院国際情報学研究科特任教授。1982-83年イェール大学大学院博士課程留学。東京大学社会科学研究所教授、同大学院法学政治学研究科教授を歴任。現在、千葉大学特任教授・学長特別補佐も務める。専門分野は国際政治、比較政治、東南アジア政治。国内外のメディアで国際情勢の解説を行うほか、映画評論家としても知られる。
生駒夏美
教養学部長
国際基督教大学教授。2002年ダラム大学博士号(Ph.D.)取得。国際基督教大学ジェンダー研究センター長、同文学研究デパートメント長を歴任。専門分野はジェンダー、ヨーロッパ文学、文学一般、日本文学、思想史。著書・編著書に『書くことはレジスタンス』(音羽書房鶴見書店)、『リベラルアーツで学ぶポストヒューマン』(東信堂)など。2022年4月より現職。
毛利勝彦
教授
国際基督教大学教授。1994年カールトン大学(カナダ)で政治学博士号(Ph .D.)取得。教養学部教授、専門は国際関係学、グローバル研究。アドミッションズ・センター長、教養学部長など歴任。著書・編著書に『生物多様性をめぐる国際関係』(大学教育出版)、『サステナビリティ変革への加速』(東信堂)など。


