3月15日国際基督教大学は、ハーバード大学在籍中の1957年から3年間ICUで日本語を学んだジョン・デービソン・ロックフェラー4世元米国上院議員の長年にわたる公職活動と日米相互理解への貢献を称え、名誉人文学博士号を贈呈しました。留学先を決めるに当たっては、エドウィン・ライシャワー博士の助言が大きかったとのことです。ワシントンDCの旧日本大使公邸で行われた学位贈呈式で同氏は、「ICUはそれまでの日本にはなかったタイプの大学で、多様性を奨励しつつも日本語を習得してバイリンガルにならなければ卒業させなかった」と述べ、漢字学習のために毎朝4時半に起きた経験を披露して日本語教育課程の厳しさを語りました。そうしなければ、厳格さで有名だったプログラムについていくことはできなかったのです。同じ授業を履修していた学生のほとんどは香港からユナイテッド・ボード(United Board for Christian Higher Education in Asia)の奨学金を受けて来日した留学生で、級友と授業で互角にわたり合っていくには何倍もの努力が必要でした。本学は今日に至るまで献学時の方針を堅持し、日英両語によるバイリンガル教育を行っています。現在でも日本語を学ぶことなく教養学部を卒業することはできず、大学院生にも日本語学習を奨励しています。地理的にも文化的にも教育的にも多様な背景を有する本日の卒業生・修了生の大半は、程度の差こそあれ似たような経験をしたのではないでしょうか。もっとも、毎朝4時半に起きて勉強した人は多くないだろうと思いますが・・・何れにしても、ここで身に付けた真剣な学習を尊ぶ姿勢は、ロックフェラー上院議員と同様、みなさんの今後の人生の糧となるはずです。
極東への留学の理由は、語学学習のみではありませんでした。生活の全てを変えることで、自らを試そうとしたのです。2015年にウェストバージニア公共放送が制作したドキュメンタリーの中で、同氏はその動機を次のように語っています。「日本に行ったのは、あのままハーバードにいたのでは決してなれなかった人間になりたいと思ったからです。何もかも自分で対応しなければならない難しい状況、苛烈な状況に身を置いて3年間言語を学び、日本語は上手になりました。そしてルームメートの家族が30世代にもわたって営んでいた農家を訪れたことで、長年の過酷な労働や困難が人々に何をもたらすかを実感するようになったのです。それは人格形成に深く寄与する経験で、公職を目指すことを考え始めました。」同氏は当初キャンパス内の東林荘に住んでいましたが、やがてICUの学部生数名と共に小金井の下宿に移りました。ロックフェラー家という出自や生育条件を考えれば、およそ快適とはいえない環境での生活は大変だったに違いありません。帰国してハーバードを卒業すると数年間、ワシントンDCの平和協力隊およびウェストバージニア州南部の採鉱町エモンズでVISTA (Volunteers in Service to America) の一員として働いた後、1967年から1984年まで州議会議員、州務長官、ウェストバージニアウェズリアン大学学長、州知事といった同州の様々な公職に就き、1985年から2015年までは同州選出の上院議員を5期務めました。この間一貫して、貧困に苦しむ人々に社会的正義をもたらす闘いを続けています。