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創立記念大学礼拝を挙行
公開日:2022年6月17日

6月15日(水)、本学礼拝堂にて創立記念大学礼拝が執り行われました。
この創立記念大学礼拝は、1949年6月15日、静岡県御殿場のYMCA東山荘に集まった日本と北米のキリスト教界の指導者たちによって開催された大学組織協議会で、「国際基督教大学」が正式に創立され、同日に理事会および評議員会が組織され、大学設立の基本方針、教育計画の原則が決定されたことを記念して毎年執り行われています。式典はコロナウィルス感染予防の観点から、会場内が密になるのを避け、入場の際に手の消毒を行うなどの対策を行いました。
北中晶子牧師の司式のもとに始まった礼拝では、『讃美歌 21』第57番「ガリラヤの風かおる丘で」の合唱、そして「マタイによる福音書 28:16-20」が朗読され、本学岩切正一郎学長が「より良い明日へ」と題したメッセージを述べました。
以下、岩切学長メッセージ全文
ICUの始まりを表すのに、大学を神に献げる、と書く「献学」という言葉と、大学が創設されたという意味の「創立」という言葉、そのふたつがあります。ICUの創立のほうは1949年。今から73年前、その年の6月13日から16日にかけて、御殿場のYMCA東山荘で、ICUを設立するための会議が開かれ、6月15日にICU設立の基本方針が採択されました。今日、創立73年を記念する礼拝は、この会議に基づいています。
繰り返すまでもありませんが、ICUは世界の中に平和を創る人を教育を通じて育てるために設立されました。
InternatinalとUniversity。そのIとUのあいだに、C、Christianが置かれています。英語のpeace、これを日本語にするときには、平和、和平、平安、などいくつかの言葉を使うことができます。ミサの最後に、「行きましょう、主の平安のうちに」と言いますが、キリスト教主義に基づくICUにとって、この「平安」という言葉がもつ意味は、たんに国際政治における平和構築、というだけのものではありません。
国家間の争い、のほかにも、宗教と宗教の間の争い、グループとグループの間の争い、親族や家族の間の争いもあれば、ときには、自分の中にあるふたつのもの、たとえば理性と感情の間での争い、といったものもあり、とにかくそのような争いをなくして、神のまなざしのもとに穏やかでいよう、というのが、主の平和だと思います。
人がこの世に姿をあらわして以来、どこにも争いのない時など、あったのでしょうか? どこかの場所で、あるとき、そういうことはあるかもしれません。けれども、この世にあまねく、すべての人の心に平安があった、ということは、あまりありそうなことには思えません。
「マタイによる福音書」(10:34)に記されているように、主イエスは、「地上に平和をもたらすため」に来たのではなく、「剣(つるぎ)をもたらすために来た」と言っています。へたをすると、私たち、あるいは少なくとも私は、つまずいてしまいそうな言葉です。いっぽうで、同じ「マタイによる福音書」のあとのほうでは「剣(つるぎ)をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」(26:2)という言葉で、剣を振り回す者を諫(いさ)めてもいます。これは、イエスがユダの裏切りもあって逮捕されるときの言葉ですが、聖書には、「このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」(26:56)とも書かれています。このあと、ペテロは中庭に座っていたときに、自分はガリラヤのイエスという人など知らない、と居合わせた人々に言いますし、弟子の誰一人、ゴルゴタへの道でイエスの十字架をいっしょに担いだわけでもありません。担ぐのを手伝わされたのは、たまたま居合わせたシモンという人でした。
このとき、イエス様の、心のなかはどうだったのだろう、と想像するような恐れ多いことを、私はしませんが、もし自分がこのような目に逢ったらどうするだろうな、とは思います。人間の弱さをすべて受け入れた上で、逃げられようが否認されようが、その向こうにある、弱さを知っている強さに信頼を置く、それができるだろうか。
創立記念礼拝にあたり、ICUが、戦争という悲惨を経験した人々によって、自分たちが壊してしまったものへの悔恨と、喪ってしまったものへの傷みと、これから育っていくものへの慈しみを深く胸に刻んで、希望に満ちて、未来へ向かって歩み出した時のことを私は想います。
希望と失意、喜びと悲しみ、苦しみと愛、そのないまぜになった私たちの日々のなかに、より良い明日へ向かうキャンパスの営みがあることを願います。
すべてをみそなわす神よ、慈しみ深い主よ、どうぞわたしたちを導き、支えてください。日常のなかに真理が示され、わたしたちが、あなたの信頼に応える者となりますように。