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2023年 新年大学礼拝

公開日:2023年1月17日

2023年1月11日(水)、大学礼拝堂において2023年新年大学礼拝が執り行われました。本年度も新型コロナウイルスの感染拡大防止対策として、間隔を保った着席およびZoom Webinarによるライブ配信も行われました。

北中晶子牧師(宗務部長代行)の司式で始まった礼拝では、参列者一同で讃美歌 二編第1番「こころを高くあげよう」のオルガン演奏を聴き、コリントの信徒への手紙2 1: 4-5が朗読され、その後、岩切正一郎学長が年頭挨拶を行いました。

聖書朗読箇所: コリントの信徒への手紙2 1: 4-5
讃美歌: 二編第1番「こころを高くあげよう」


岩切学長新年挨拶全文

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あけましておめでとうございます。

2023年が始まりました。その始まりを、みなさん、心静かに迎えられたでしょうか。それどころではなかった、という人もいると思います。暦の日は、私たち皆に、同じようにやってきます。けれども、そのなかで何が起こるのかは、人それぞれです。

ICUの年間カレンダーには、教授会の日、というのが設けられています。毎回、会の始まる前に、新任の先生に、ご自分の研究の短いプレゼンテーションをお願いしています。去年の12月、去年といっても、つい2週間ほど前なのですが、そのプレゼンテーションを、哲学・宗教学メジャーの焼山先生にお願いしました。そのお話のなかに、ふたつの時間概念の話が出てきました。終末論(eschatology)によって特徴付けられた直線的な時間と、同じ環(わ)のなかを巡っているように見える循環的な時間についての話でした。クリスマスや新年を迎えるときに、とても示唆に富むお話でした。

この二つの時間の捉え方のなかに、本館前の芝生に植わっている梅の木を置いてみましょう。

この冬は、もう12月の半ばから、その梅の一つには、白い花がちらほら咲いていました。梅の木は、毎年、季節のめぐりにあわせて、花を咲かせては良い香りを放ったり、芽吹いたり、実を結んだり、葉を散らせたりしています。その木は、宇宙的な視点からみれば、自転しながら太陽の周りをまわっている地球の上に乗っかって、くるくる回りながら場所を移動しているのですが、私たちの日常のなかでは、同じ場所にじっとしているように見えます。そして毎年、季節の循環のなかで同一性を保っているように見えます。

けれども、この梅の木にも、かつてはたった一個の種か、あるいは苗だった時があり、次第に成長し、そして、何十年か先の死へ向かって---その死は、樹齢が尽きて訪れるのか、それともむりやり人の手によってもたらされるのかは分かりませんけれども---、二度とない時を重ねています。誕生から死への直線的な時間のなかに循環的な歳月が重なり、ひとつになっています。

人間は、その時間へ、暦を与え、みんなに共通の客観的な時間を設定しています。月や曜日は循環的で、年号は直線的です。それはいわゆる、クロノス的な時間、客観的で物理的な時間でもあります。それと同時に、私たちは、より主観的で内面的な時の感覚を持っています。思いがけない出来事に遭遇したり、とても深い感覚を覚えてふつうの時間とは違う、違うというよりはむしろ、時間の概念が消えてしまったかのような感覚を持つ、果てしない瞬間とでもいえるような、そうした時の感覚です。それを、クロノス的な時間に対して、カイロス(kairos)的な時間、ということがあります。

カイロス的な時間は、客観的に時が進行してゆくなかに、突然出現する、思いがけない出来事のような時間で、通常の連続性は切断され、ある意味では、私たちを普段の意識とは別の次元へ運びこむ力を持っています。


年頭に当たって、みなさんと一緒に想いをはせたいことがあります。

二週間前にお祝いしたイエス様の誕生は、歴史の中でただ一度だけ起こった出来事、カイロス的な出来事でした。私たちは、それを記憶し、繰り返し思い出し、記念しています。そのような記念日の形で、あるいは、何月何日かは記憶していないけれど、出来事の内容ははっきり覚えている、という形で、私たちは、それぞれ一人ひとり、特別な瞬間の体験を持っています。

今年もまた、世界のなかで、そして個人の人生のなかで、良いことと悪いことが、さまざまな形で起こるでしょう。作家のプルーストは、みんなを襲う災害の例に「疫病、戦争、革命」を挙げています。何が起ころうと、私たちは、自分のなかを覗いてみるとき、力に満ちた善があふれでるカイロス的な時とつながっている場所を、心のなかに持っていることを見出します。そこに開いている無限なもの、永遠なものに迎えられ、同時にそれを自分のなかへ迎え入れることを、私たちは今年も持続できればと思います。今日の聖書朗読箇所に「コリントの信徒への手紙」の一節をお願いしたのはそのような思いからです。キリストの、この世での誕生から死へ、そして復活へとつながる時間と永遠性のなかから、神が私たちへ向かって語りかけているもの、苦しみの意味とありか、そこへ慰めをもたらす希望について、私たちは、今年もまた、自分たちが行う営みを通じて、より深く理解し、関与できればと思います。