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2025年 新年大学礼拝
公開日:2024年1月9日

2025年1月8日(水)、大学礼拝堂において2025年新年大学礼拝が執り行われました。
ジェレマイア オルバーグ宗務部長代行の司式で始まった礼拝では、参列者 一同で讃美歌 第411 番「すべしらす神よ」を歌い、ローマ人への手紙 5:1-5が朗読され、その後、岩切正一郎学長から新年のメッセージがありました。
聖書朗読箇所:ローマ人への手紙 5:1-5
讃美歌:第411 番「すべしらす神よ」
岩切学長新年メッセージ
2024年が終わろうとする12月、突然、シリアのアサド政権が崩壊したというニュースが報じられました。本学は、JICUFと協力し、2017年に「シリア人学生イニシアチブ」(Syrian Scholars Initiative)という奨学金を設立し、2018年度から、シリアの内戦を逃れた避難学生を4年本科生として受け入れてきました。2011年の「アラブの春」をきっかけに始まった約14年間のシリア内戦において、アサド大統領の独裁に反対する多くの国民が命を落とし、また国外に難民となって逃れました。今その荒廃した祖国に平和な生活を設計する希望が、シリア国民の心のなかに生まれているはずです。アサド政権に対立していた勢力には様々な立場の人が入り混じっているので、そうした立場の違いを越えて、全員が等しく享受できる自由と平和を獲得するまでには長く困難な道が続くのかもしれません。けれども、私は、本学で学んでいるシリアの学生(a Syrian student)が、今、大きな解放感とともに、これから自分たちの手で国を再建していくことができるという希望の火を胸に灯したことを知っています。ICUでの学びがその希望の実現を支えることを願っています。
ウクライナやガザでは、終わりの見えない破壊行為と殺戮が続いています。十六世紀のフランス・ルネサンスの作家ラブレーは、物語の登場人物の筆を借りて「一切の兵火の器具は悪魔の教唆によりて創(はじ)められたるもの」(『パンタグリュエル物語』第8章、渡辺一夫訳)と言っています。その武器や兵器はテクノロジーの助けを借りてますます破壊力を増しながら、世界の様々な地域で人間の命を破壊しています。
科学とテクノロジーの進歩によってますます便利になるいっぽうで、ますます破壊力を増していく、世界の悲惨を前にしながら、私たちはどのように希望の火を灯すことができるのでしょうか。
2017年、私は教員として授業をするかたわら、一冊の詩集を作りました。タイトルは『翼果のかたちをした希望について』(On hope in the form of samara)といいます。同じタイトルの詩が、詩集に入っています。個人的なメッセージになりますが、今日はその詩をここで朗読させてください。
「翼果」というのはカエデのような木の種です。小さくて乾いて平べったい種に翼のような皮がついていて、風にのってクルクルと舞いながら飛んでいきます。
これから読む詩は、最初の部分では、二行ずつ、平穏な生活と破壊された生活が対置されています。
「翼果のかたちをした希望について」
武器をもたずに食事して
仕事して 休みのある日常
虐げられ 空腹で
死におびえる日常
器とカーテンレールと袋と水の音を
のせて 船出する一日
髑髏(どくろ)になった窓 途方にくれたぬいぐるみ
垂れたコード よごれた敷物
ほどいて 編み直す
ほつれて ふるえている
座礁した光から
小さな光にのりかえて
乾いて平たい
涙のなかに包まれて
2017年の頃にも、すでに長い間、パレスチナの人々は土地を奪われ武器による暴力を受けていました。ウクライナではクリミア半島がロシアに併合され、東部地域はロシアの攻撃を受けていました。シリアは内戦状態で、ドキュメンタリー・フィルムには、サッカーの好きな屈託のない少年が、やがて武器をとり、独裁政権に抵抗し消息不明となる様子が記録されたりしていました。
廃墟となった町のなかで、あるいはそこから離れて、人はどうやって希望を持ち続けるのだろう、と私は自分の日常に身を置きながら考えました。大きな希望が砕かれた時、絶望する代わりに、砕けた希望のかけらを拾い、その小さくなった希望の小舟にのって、時の中を進み続けるのではないだろうか。自分が苦しかった時、確かにその苦しみは、政治的・軍事的な暴力に見舞われている人々に比べたら小さな苦しみだったかもしれないけれど、それでも、そのようにして自分は希望を持ち続けたのではなかっただろうか、と思ったのでした。
翼果のかたちは、乾いて平たい涙のかたちをしていて、その涙のなかに大きなカエデのような木へ育っていく命が包まれている、という詩を書きました。
今になってみると、光が座礁した時、別に小さな光へ乗り換えたりせずに、座礁しない光を自分でつくれば良いのではないか、と思います。多分この7年間で私自身も変わったのでしょう。
2025年はどのような年になるのでしょうか。私たちが大切にしている自由や平等や民主政(democracy)は、健全に生き延びているのでしょうか。笑い(smile)や信頼や幸せに満ちた時は人生のなかに保たれているでしょうか。
私たちの大切なものが生き延び、人生に価値を与えるものが保たれるためには、憎しみと争いではなく、愛と対話が必要です。
2025年のなかに、愛と対話があり、慈しみが満ちていますように。