メールマガジン Message from ICU, No.15 「新・私のリベラルアーツ・カレッジ論 (1)」
公開日:2026年10月16日全国の中等教育に携わる先生方へ向けてメールマガジンを発行しています。なお、配信を希望される方は、以下よりお申込みください。
Message from ICU , No.15(2026年10月15日発行)
新・私のリベラルアーツ・カレッジ論 (1)

特任教授 森島 泰則
新シリーズ「新・私のリベラルアーツ・カレッジ論」スタート
日本社会において「リベラルアーツ」という言葉すら知られていなかった1990年代後半、リベラルアーツの認知を拡げるために、「私のリベラルアーツ・カレッジ論」を当時の広報誌で定期的に発信していた。 時代が変わり、私たちを取り巻く社会環境も劇的な変化を遂げる今、リベラルアーツは未来を切り開く学びとして注目を集めている。開学当初から「リベラルアーツ・カレッジ」として存在し続けるICUが目指すリベラルアーツとは何なのか。未来の見えない今だからこそ、その本質を改めて紐解いていく。
はじめに、私の専門である心理学の授業の一場面を紹介したい。「知覚」を扱う授業で、視覚受容器である眼の構造とはたらきを説明した後、植物の葉や果実の反射スペクトルと、人間の眼が感じ取ることのできる波長域を示し、「なぜ両者はこのように対応しているのだろう」と学生に問う。多くの学生は、「人間の眼が、生存に重要な果実などを見分けやすいように進化(適応)した」と答える。そこで私は、「人間の眼に見えるように自然界がつくられたと考えることはできないだろうか」と、あえて問い返す。「それは創造論的で、科学的ではない」という反応が返ってくる。

さらに学生同士で話し合ってもらうと、別の見方が現れる。「果実の色の側も、動物に見つけてもらいやすいように進化したのではないか。目立つ果実ほど食べられ、種子を遠くへ運んでもらえるからだ。」といった意見が出る。学生たちは、「共進化」や「相互適応」という概念を知らなくても、ヒトの眼が環境に適応する一方向の説明から、動物(ヒト)と植物の関係を双方向から捉える説明へと考えを広げていく。

ここで私は学生に創造論を受け入れさせたいわけでも「共進化」を論証させたいわけでもない。ねらいは、自分が無意識のうちに採用していた説明の枠組みに気づき、それをいったん相対化し、別の可能性を検討することにある。問いによって前提が可視化され、対話によって見方が増え、最初の答えが組み替えられていく。私にとって、これがリベラルアーツの原型である。
「答える」前に「問う」
リベラルアーツは、幅広い知識を身につける「一般教養」ではない。私なりに言えば、異なる知の枠組みを用いて一つの問題を捉え直し、自分の前提と世界観を吟味し、他者との対話を通して自分の考えを形成していく営みである。そこから導かれる結論は、対話の中で揉まれ、修正されうるという意味で暫定的である。したがって、その中心にあるのは、知識の量よりも「問い」であり、唯一の正解よりも、「問い」を追求する中で根拠を確かめながら考え続ける批判的思考 (critical thinking) である。

日本の学校教育を経てきた学生の多くは、知識習得重視、そして正解を出すことをゴールとする「正解主義」の傾向が強い。知識を身につけることは大切である。しかし、そのような学習においては、問いには正解があることがあらかじめ分かっている。その経験を積み重ねると、学生は「正しい答えを早く出す」ことには長けても、「そもそも何が問題なのか」「その問い方でよいのか」「別の前提に立てば何が見えるのか」を考えることに不慣れになってしまいがちだ。リベラルアーツ教育でまず必要なのは、この知的習慣を転換することだと思う。「この主張の前提は何なのか。その前提に問題はないのか」「同じ事実、証拠から別の結論は導けないか」「自分はどの立場を取り、なぜそう判断するのか」。こうした問いを自ら立てられるようになることが、「正解主義」から自由になる第一歩だと私は考えている。「自由になるための学問」としてのリベラルアーツは、何ものにも制約されないという意味ではなく、自分を縛っている前提に気づき、根拠をもって考え直せるという意味で、人を自由にするのだと思う。
専門を深めることと、境界を越えること
私は認知心理学、とくに言語心理学を専門としてきた。専門を持つことは、世界を見るための確かな足場を持つことである。しかし、足場を一つしか持たなければ、そこから見える世界を世界そのものと思い込みかねない。専門を深めることと、専門の境界を越えることは対立しない。知の越境を通して別の問いに出会うことで、むしろ自分の専門の前提と限界がよく見える。
認知心理学者として、私は実験から得られる証拠を重視してきた。実証研究の厳密さは、リベラルアーツにおいても大切だと思う。しかし、科学的方法を尊重することと、科学だけですべての問いに答えられると考えること (すなわち、scientism) とは異なる。科学的研究によって、認知や行動の仕組みやプロセスを明らかにできるが、「人間とはどのような存在なのか」「善く生きるとはどういうことか」を決めることはできない。現象の説明と、価値の判断を区別しながら、両者を切り離さずに考える。その往復運動も、私にとってのリベラルアーツである。
これまで私が担当してきた科目は、そのことを実感する場であった。一般教育科目・特別講義「ポストヒューマン」では、他分野を専門とする教員たちと共に、「そもそも人間とは何か」「知性、意識、人格とは何か。そして、それはどこから生まれるのか」という世界観に関わる問いに向き合った。学部科目の「言語心理学」では、言語を心理学の対象として精密に考える。しかし、言語の起源や獲得、言語理解過程、言語を司る脳機能を考え始めれば、生物学、言語学、哲学、教育学、さらにはAI研究との境界に踏み込まざるを得ない。さらに、「言語心理学研究」では、二人の20世紀の知の巨人、言語学者チョムスキーと心理学者ピアジェを中心にノーベル賞受賞者を含む第一線の研究者たちが参加する言語の生得性についてのディベート(の書籍)を学生たちと問いをぶつけ合い、議論する。ディベート参加者たちは生物学者、AI学者、哲学者たちで、専門外の彼らの主張や議論にどこまでついていけるか、学生のみならず私にとっても刺激的な挑戦だが、一番手応えのある経験でもある。

これらは一見、別々の授業である。しかし私の中では、総合知、学際性、対話、批判的思考、世界観、バイリンガル、探究的アプローチという一本の糸でつながっている。総合知とは、あらゆる分野を浅く知ることではない。ある問題に対して、必要な知を分野の境界を越えて繋げることである。複数分野の知識を並べるのではなく、それぞれの分野が何を問い、何を証拠とし、何を説明できないのかを「対話」させることによって、学際性が生まれるのではないだろうか。
ICUの日英バイリンガル環境も、この営みと深く関わっている。私は、専門科目の授業を、英語を主体としてバイリンガルで行ってきたが、バイリンガル教育の価値は、単に二つの言語が使えるようになることに尽きるのではない。同じ概念でも、用いる言語や文化的文脈が変われば、含意や問いの立て方がずれる。そのずれに出会うと、自分にとって自明だった理解が揺さぶられる。言語を往復することは、世界の見方を往復することでもあると言えるだろう。
対話は大人数の教室でも生まれる
私が担当してきた授業には少人数のセミナーもあるが、五、六十人を超える授業もある。対話型教育というと、少人数の授業を思い浮かべがちである。しかし、大人数の授業でも対話は可能である。教員が問いを投げかけ、学生がまず自分で考え、隣の学生や小グループで言葉にし、異なる考えを教室全体で共有する。教員の役割は、あらかじめ用意した結論へ誘導することではなく、出てきた意見の前提や関係を可視化し、次の問いへつなぐことであると考えている。

この過程で、教員自身も予想しなかった考えに出会う。冒頭の視覚の例でも、授業を豊かにしたのは、私が用意した説明だけではなく、学生が互いの発言を受けて生み出した視点であった。ICUにおける対話とは、教員が完成した知識を学生に渡す教授技法ではない。教員も学生も、自分の理解が不完全であることを認め、相手の言葉によって考えを修正し得るという、学問に対する姿勢そのものなのである。
AI時代に、何を問うのか
近年のAIの驚異的な発達によって、AIは大学教育にも急速に入り込み、学修・研究のあり方を大きく変えつつある。AIは問いに答え、情報を整理し、うまく文章にまとめてくれる。このAi時代に、大学が知識の伝達と正答の産出だけを目標にするなら、大学の存在意義は小さくなってしまうだろう。そうではなく、ますます私たちは「何を問うべきか」「何を価値ある問題とみなすか」「複数の答えをどの基準で評価すべきか」を考え、責任ある判断を下せる人間を育てる使命を担っていかなければならない。
AIは、コンピュータ・サイエンスや工学だけの問題ではない。人間がAIをどのように理解し、知的活動に生かすのかは心理学の問いであり、知性や意識、人格とは何かは哲学の問いであり、AI時代に何をどのように学ぶべきかは教育学の問いである。さらに、AIを誰のために用い、利益と危険をどう分配するかは、倫理、法、政治、経済に関わる。現代の重要問題は、もはや文系・理系という分類には収まらない。

ところが、日本では、大学受験に備えるため高校段階で文系・理系に分けることが多い。一方、大学に入ると「学際的に考えなさい」と求める。しかし、気候変動には科学だけでなく政策、経済、公正、倫理が関わり、生命科学には生物学だけでなく生命倫理や社会制度が関わる。専門人材を増やすだけでは、専門知を統合し、まだ定義されていない問題を発見し、社会が進むべき方向を構想する力は育たない。リベラルアーツは、文系科目を理系教育に付け足すことではなく、分断された知を問いによって結び直す教育なのである。
社会が直面する課題の多くは、コンポーネントとしての知識や技術が不足しているから解決できないのではなく、それらを一つのシステムへと統合し、目的と価値を問い直す力が不足しているために解決できないのではないか。優れた専門家を育てることは不可欠である。しかし同時に、専門家が互いの言葉を理解し、問題の定義そのものを共同でつくり出す場が必要である。リベラルアーツ・カレッジは、そのための知的なコミュニティという役割を果たすことができると思う。
これからのリベラルアーツ・カレッジ
ICUは、メジャー制、日英バイリンガル教育という環境の中で、学生が専門を選ぶ前も、選んだ後も、異なる分野や世界観と出会える場をつくってきた。この知の越境を支えているのは、教員と学生、学生同士、異なる専門、異なる言語の間で行われる対話である。そこでは、自分の考えを明確に語ることと、他者の声に耳を傾け、場合によっては自分の立場を修正することが求められるのである。この伝統の上に、これからのリベラルアーツ・カレッジには、10年後、20年後にどんな課題が出るのかを構想し、まだ存在しない解決への可能性を考え、それが人間と社会にとって何を意味するかを問い直し続けなければならない。そして、社会が今必要としている人材を供給するだけでなく、このような考察のできる人を育てる責任がある。

また、リベラルアーツ的な知的習慣は大学一年生から突然始まるものではない。中等教育から大学まで連続して、問い、探究し、対話する経験を育てる必要がある。大学がどのような学生を選抜し、どのような学びを価値あるものとして示すかは、中等教育にも大きな影響を与える。その意味で、ICUの使命は学内で完結してはならない。
最後に、私にとってリベラルアーツとは、専門という足場に立ちながら知の境界を越え、常に自分の世界観と前提を問い、他者との対話によって自分の理解を組み替え、責任ある結論や選択へ進むことである。答えを所有することよりも、よりよい問いを立て、ともに探究できること。その知的な自由を育てることこそ、激しく変化する時代にICUのリベラルアーツが果たすべき、変わることのない使命だと考えている。
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<プロフィール>
特任教授 森島 泰則
2003年ICU着任。専門は、認知科学、認知心理学、言語心理学。主な役職は、心理学・言語学デパートメント長、アカデミックプランニング・センター長、アドミッションズセンター長など。