メールマガジン Message from ICU, No.9 「熟考の結果、肯定するのも『クリティカル・シンキング』」
公開日:2022年01月28日人が人とのclose contactを避けなくてはならない。この異常な状況のなかでも、皆様とコンタクトを取り続けていきたい。そのような思いから、全国の中等教育に携わる先生方向けのメールマガジンを発行しています。なお、配信を希望される方は、以下よりお申込みください。
Message from ICU , No.9(2022年1月28日発行)
熟考の結果、肯定するのも「クリティカル・シンキング」
教養学部副部長(カリキュラム担当) 生駒 夏美
リベラルアーツ教育の基礎はクリティカル・シンキングこのところ、日本ではリベラルアーツに注目が集まっており、学部教育の低学年に取り入れたり、一部の学部で取り入れる大学が増えています。リベラルアーツというのは、専門領域の壁を超えた学際的な知識を育み、幅広い知識、創造的発想力、人間性の発達、人格の成熟を目指す教育です。国際基督教大学(ICU)は1953年の献学時よりリベラルアーツ教育を採り入れています。リベラルアーツ教育は、小手先の技術や資格取得を目的とする教育とは異なり、人生をより良くより豊かに生き、責任ある地球市民として活躍する応用力を持つ人間を育てることを使命としています。
そのリベラルアーツ教育の基礎となるのが、クリティカル・シンキングです。クリティカル・シンキングは日本語では「批判的思考」と訳されることが多いですが、「批判的」という言葉を「否定的」と誤解している人もいます。しかし、これは誤りです。クリティカルの語源は古代ギリシャ語のkritikosで、「見分ける、判断する、理解する、意味を介する」という意味です。元々は「神々の持つ全知の力には及ばない人間が、神々に近づくために理性を用いて思考すること」を指していました。例えば、新約聖書の『ヘブライ人への手紙』には次のような箇所があります。
神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分ける(kritikos)ことができる (新共同訳4:12)
神が引き合いに出されていることからもわかるように、前提にあるのは、神とは異なり人間の判断力や思考力は完全なものではない、という考え方です。ですから「自分の思考をより良い完全なものに近づけるために、さまざまな知識を総動員して考えること」が必要となるのです。
つまりクリティカル・シンキングとは、他人の意見を否定することではなく、自分の不十分な考えを点検して改善することといえるでしょう。「安易に鵜呑みにしない」、「常識や思い込みにとらわれない」、「議論の前提も含めて問い直す」といった態度が、クリティカル・シンキングに相応しいものです。総合的に熟考した結果、その意見を否定するに至ることもあるでしょうが、肯定するに至ることもあるのがクリティカル・シンキングなのです。
クリティカル・シンキングには鍛錬が必要
クリティカル・シンキング、実はとても難しい作業です。今まで慣れ親しんでいた価値観や信念、あるいは常識だと思っていたこととは異なる意見を耳にすると、私たちはしばしば直観的に否定したい衝動に揺さぶられます。「自分の考えが不十分であるかもしれない」「今まで信じていたことが間違っているかもしれない」と認めるのは、簡単ではありません。でもこのハードルを乗り越えることが必要で、これが乗り越えられなければ、知的に成長することはありません。大切なのは、否定したい気持ちが湧き起こった時に、「なぜ自分はこれを否定したいのか」と問うことです。それがクリティカル・シンキングの第一歩です。
逆もまた然りで、自分の不安や疑問を肯定するような情報を目にすると、デマであるにもかかわらず鵜呑みにしてしまうケースがよくあります。例えば、関東大震災の後に、外国人が井戸に毒を入れたというデマが出回り、その結果、多くの朝鮮人や中国人などが殺害された痛ましい事件がありました。元からあった外国人への差別感情や不安などが大震災で膨らんでいたところに、その気持ちを汲みとったようなデマが聞こえてきて、冷静に判断できずにデマの流布や暴力行為に加担してしまう人が少なからずいたのです。
コロナ禍でも同じように、ワクチンに関するデマや陰謀論が出回りました。ワクチンによってDNAが書き換えられてしまうとか、不妊になるなど、科学的には正しくない情報がSNSで大量に拡散されました。コロナへの感染不安がある中で、ワクチンに対する漠然とした疑問や副反応への不安が強められ、このようなデマの拡散が起きます。SNSというメディアが情報拡散を容易にしている点にも注意が必要でしょう。うっかりすると、自分がデマの発信者・拡散者になってしまいます。大量の真偽不明な情報が出回っている現代社会で、わたしたちは自ら正しい情報を選び取らなければなりません。そのためには、例えばよく自分で調べること、医療や科学の知識を持つこと、理性的な判断をすること、メディアリテラシーを持つことが重要です。
そうは言っても、玉石混交の情報から正しいものを見極めるのはなかなか難しいことです。自分で判断する(kritikos)には責任が伴うので、他人に判断を委ねてしまう傾向もあります。言葉巧みに不安を煽るアカウントの多くは、実はフォロワーを自分のビジネスに誘導したり、あるいは特定のイデオロギーに誘導していることもわかってきていますが、そのような「不安ビジネス」に多くの人が巻き込まれてしまっています。「本当にそうなのか」と問う作業が重要ですし、怪しい情報であるのに自分が信じてしまいそうになっている時には、「なぜ自分はこれを信じたいのか」と自己点検することが必要です。「自分の常識を問い直す」「自分が信じるものと対峙する」というのが、他人を批判することよりもはるかに困難かつ重要なのです。
クリティカル・シンキングは一朝一夕に身に付くものではありません。鍛錬が必要です。異質な考えを「直観的に否定したい衝動」は強いものですし、クリティカル・シンキングのためには、物事を総合的に俯瞰するための豊富な知識、多角的視点、十分な情報が必要だからです。
ICUにおける実践
ICUでは、一年次の英語プログラムの授業からクリティカル・シンキングのトレーニングが始まります。英語能力を高めるプログラムですが、ただ英語ができる人を育てるのではなく、英語を使って世界的に活躍する人を育てることが目的ですので、学生はさまざまなアカデミックな題材について文献を読み、自ら調べ、発表し、議論することを通して、深く多角的に思考する訓練を受けます。英語プログラムが終了した後も、すべての授業でクリティカル・シンキングを促す授業が行われます。このような丁寧な学びを確保するために、ICUではバイリンガル教育、双方向の授業、少人数制を採用しています。全国の大学に先駆けて、ジェンダー・セクシュアリティ教育を学部レベルで開始したこともあって、言語的・文化的・性的多様性について体感できる教育環境です。教員の国籍・バックグラウンドは、多様です。教員一人あたりの学生数は十八人と少なく、授業では教員と学生たちが疑問に思ったことを徹底的に対話・討論できるようになっています。また、他大学の教養課程とは異なり在学期間を通じて履修を勧められている学際的な一般教育科目群が、専門科目群とは別に設けられ、そこでは複数の領域にまたがるような総合的な課題に取り組みます。このような学習環境で、学生たちは受動的に学ぶのではなく、自ら能動的に調べて思考するアクティブ・ラーニングをしながら、すこしずつクリティカル・シンキングの技術を修得してきます。
ジェンダー・セクシュアリティに関することは、特にクリティカル・シンキングが肝要な学問領域です。というのも、ことジェンダーについては、社会の中で男女二元論が自然化されて染み込んでいますから、「それが常識だと思っていた」とか「考えたこともなかった」ということばかりなのです。また大学に入るまで学問として触れてこなかった学生も多いです。ですから「自分の中の常識を疑え」というエクササイズには、もっとも適した学問領域かもしれません。学生からは、しばしば授業で「目から鱗が落ちた」という言葉をもらいます。鱗をまとっていたこと、偏見というサングラスをかけていたことに、学生たちが気づいた瞬間に出てくる言葉です。
そんなICUでもクリティカル・シンキングを聞きかじったばかりの低学年のうちは、概して「否定的思考」にとらわれて、揚げ足取りのようなことをしがちです。しかし、学年が進むに連れ、さまざまな「目から鱗」体験を積み重ねて、次第に自らを問い直す思考としてのクリティカル・シンキングを学んでいきます。ICUの卒業生の多くが、大学で学べてよかったこととして「クリティカル・シンキング」を挙げます。このように時間をかけて身につけたクリティカル・シンキングは「考える喜び」や「異質なものを理解する喜び」「真実に近づく喜び」を体験させてくれて、自ら人生を切り拓き、世界で活躍するために欠かせない力、一生の財産となります。
グローバル社会において、クリティカル・シンキングはますます重要度が増しています。特にこれからの若者たちにとって、似たような価値観を持つ人たちにだけ囲まれて一生過ごしていくことは、おそらく不可能に近いでしょう。どの職業を選び、どこで暮らしていくにせよ、世界で起きている問題の影響を受けています。ここ数年のコロナ禍にせよ、コロナ禍によって炙り出されたさまざまな社会問題、例えば人種問題、経済格差、ジェンダー間格差、情報格差、資本や資源の一極集中にせよ、これらの影響を受けない人は一人もいません。また環境問題にしても、貧困や紛争にしても、一人だけで、あるいは一国だけで解決できる問題ではありません。いずれもさまざまな要因が絡み合っていて、一筋縄で解消できるようなものではありません。さまざまな立場の人が知識を持ち寄って、領域を超えた複数のアプローチ、リベラルアーツ的なアプローチを用いることが必要となるでしょう。
これからの若い人たちには、言語も宗教も経済状況も異なる多様な人々と対話し、協力しながら、これら世界的課題に取り組む必要があります。互いを尊重する平和な共生社会を作っていくために、自らの常識を問い直し、他者に対して開かれた感受性を養うクリティカル・シンキングを大いに実践してもらいたいと思います。
*本記事は、スマートニュースメディア研究所に寄稿した記事(2021年12月24日掲載)を再編集したものです。
教養学部副部長(カリキュラム担当) 生駒夏美
英国ダラム大学博士課程修了、Ph.D.(English Studies)。国際基督教大学文学研究デパートメント長、ジェンダー研究センター長を経て現職。専門は文学とジェンダー・セクシュアリティ研究。著書に『欲望する文学:踊る狂女で読み解く日英ジェンダー批評』(英宝社)、共著書に『現代イギリス文学の今:記憶と歴史』(彩流社)など。