Dialogue about World Peace「平和」について
公開日:2024年02月28日平和を希求し続けることは、
戦後に平和を求める多くの声により誕生した
ICUの原点であり、使命です。
しかし、あらゆる利害関係がダイナミックに
絡み合う現代社会において、
「等しく、全ての人類にとっての平和」は
達成されるでしょうか。
ここでは、31のICUのメジャーの中から
「教育学メジャー」と「言語学メジャー」の視点を通して、
「平和」について身近な問題から掘り下げていきます。
西村幹子 教授
(担当メジャー:教育学、開発研究、平和研究、ジェンダー・セクシュアリティ研究)
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山本恭聖
(言語学メジャー、教養学部4年当時、埼玉県聖望学園高等学校卒)
Chapter1
―まず、今の日本の平和は平和でしょうか。あなたなら、どう考えますか。
山本:世界の国々と比較すれば、殺し合いや奪い合いが少ないという点において平和といえるかもしれない。私自身の主観ですが、今日本は平和だと言えると思います。やはり世界の国々と比較してみても、殺し合いや奪い合いという争いごとも少ないといえますし、飢餓のリスクも非常に少なく、人として生きる上で最低限必要な要素は保証されているからそう考えるわけですが、さらにその上にそれぞれが「小さな幸せ」を感じながら日々生活を送ることができるということも私が「日本は今平和である」と考える理由だと思います。
ただ、一方で日本の自殺者数は世界的にもトップクラスだという統計もある。「自殺者を出さないのが平和な状態だ」とするのであれば、日本は平和ではないとも言えますが、実体験として「日本には自殺者が多い」という認識が低いために、日本は平和ではないということと直結させて考えることが難しいというのが、率直な意見です。
言語学の視点
主導権を握りたいという、「欲」にも関係が深いのではないか。
山本:私は言語学メジャーを専攻しているのですが、ある1つの言語の歴史を紐解いてみても、確かに争いの歴史であるとも言えます。例えば「英語」という言語1つとっても、西欧の様々な部族の言葉に端を発し、どういった課程を経て、今の形に消滅・統合されていったのかに注目していくと、やはり文化的な対立の存在は色濃くあると感じ、その要因を解明してみたいと思うようになりました。
教育学の視点
他民族・多文化国家であればあるほど、欲求も複雑化していきます。
西村:言語というのは常に論争の種であるといえるでしょう。
例えば100種類の言語が話されている国において、「どの言語を使用して教育を行うか」は常に問題になりますし、アフリカでも同じことが起きています。人びとの間で必ずしも母語で教育を受けることが良いという結論には至らないという事実も無視できません。公用語である英語や仏語が理解できなければ課程修了試験のテスト問題が解けないからです。それは進学や就職にも密接に関係してきますから、単に「欲」と言っても、多様ですよね。
言葉を通じて価値観を共有することでみんなで創りあげるのが平和ではないか
山本:私は英語の歴史に興味があり、今の英語ができるまでの間、様々な部族における文化の中でどのように変化していったのか、今の英語という形を成すまでの原始的な英語を、冠詞を中心に研究しています。
英語は今現在、世界で主流とされていますが、それまでにはフランス語がプレゼンスを高めた時期があったり、意外かもしれませんが、他の言語に押されて英語が消滅しかけた時期もありました。例えば現在「a」や「the」というと、それしかありませんが過去には14通りの「a」や「the」がありました。どういった課程を経て、今の形に消滅・統合されていったのかに注目していくと、やはり文化的な対立の存在は色濃くあると感じ、その要因を解明してみたいと思うようになり、卒業論文のテーマもこの延長線上で考えています。
その上で、現在私が専攻しているメジャーの立場から考えると、現在、世界には約8,000の言語があるとされていますが、それぞれに考える平和の姿は1つではないと言えますし、「平和とはこれです」という1つの解が無い限りにおいて、1つの目標を設定するのは不可能だと思います。ただ、言葉を通じて価値観を共有しあうことでみんなで創り上げるのが平和ではないでしょうか。平和とは「目的」や「結果」ではなく、平和とはプロセスであり、状態だと考えられると思います。求め続ける、その態度こそが重要ではないでしょうか。さらにその「求め続けようとする態度」を多くの人と共有することに、人間の可能性があるのではないかと、私は考えています。
西村:言語を紐解いていくと、政治や文化、格差といった社会的な背景が見え隠れします。
母語で学ぶというアイデンティティ形成に関する欲もあれば、将来生きていくために必要な言語習得という欲もある。多民族・多文化国家であればあるほど、欲求も複雑化していきます。日本では考えが及ばない問題ではないでしょうか。アフリカでは「書く言語が無い」民族もいます。では教科書をどう作り、どう教育するのか、といった状況も起こりうるのです。
南アフリカにおいて、かつてアパルトヘイトから解放され、誰もが学校教育を受けることが可能になった時代がありました。しかし蓋を開けてみると、アフリカーンス語と英語で開講されている授業があり、アフリカーンス語が話せないアフリカ系の人々はアフリカーンス語で開講されている授業が履修できない、また試験の前に2言語で開講されている授業でアフリカーンス語で開講されている授業では試験の出題範囲が公表され、一方で英語で開講されている授業では公表されないといった不平等も生じています。「隠れたカリキュラム」などと教育学では言いますが、表向きは民族融和といいつつも、実際に起きていることは違う。これまで築いた地位を脅かされたくないという支配的な人種・民族があらゆる手段で差別化を図ろうとしていて、その手段の1つが「言語」であるともいえるでしょう。誰かがその情報にアクセスしたいと考える際に、それをシャットアウトすることを可能にするのが「言語」だと言えます。
言語を紐解いていくと、政治や文化、格差といった社会的な背景が見え隠れしますね。
人間は平和を築きもすれば、破壊もする。求めもすれば、否定もする。自己矛盾を抱えた生き物だとも言えますね。ただ、人間がこの世に生まれた瞬間においては、価値観や態度といった性質を持って生まれるわけではありません。後天的に社会から、環境から学び、身につけていくものだと思います。
Chapter2
―社会の持続のために法制度の整備など、大きな枠組みの策定ももちろん不要とは言いませんが、同時に一人ひとりの「幸せ」の尺度が異なる以上、個人レベルでの「対話ができる環境」が必要でしょう。
西村:社会を持続していくとはどういうことでしょう?
経済効率を最優先するあまり、歪みが生じているのが現在の世界ではないでしょうか。
効率を重視すると、どうしても非効率な方々が排除され、社会参加が保たれない。
例えば出産や育児に従事しなければならない女性、また障害を持つ人もそうでしょう。
また効率性を追求すると、長期的なプランが描きづらくなり、つい目先の成果にばかり興味を惹かれる。
これは環境問題も同様です。今は充実した生活が送れているかもしれませんが、資源が枯渇した時にはもちろん今と同等の生活は保証できない。次世代のことは全く考慮されていない。
何かの犠牲の上に成り立つ成長や平和というものは、実は小さな憤懣を溜め込んでいて、それが爆発する日を迎えるまでの短期的な幸せでしかありません。
社会の持続のために法制度の整備など、大きな枠組みの策定ももちろん不要とは言いませんが、同時に一人ひとりの「幸せ」の尺度が異なる以上、個人レベルでの「対話ができる環境」が必要ではないでしょうか。
教育学から平和について考える上で、パウロ・フレイレという教育思想家がヒントを与えてくれます。
教育学から平和について考える上で、パウロ・フレイレという教育思想家がヒントを与えてくれます。彼は、「人間は欲深い生き物であるが、欲を欲でやり返したり、抑圧を抑圧でやり返すのでは同じ世界が繰り返されるだけ。自らが格差構造や搾取構造から解放されなければならない」と説いた人物です。
これは、「抑圧する側」の人間も実は自らの既得権益に縛られた「抑圧されている側」であることを示唆しています。また彼は教育学の立場から、「対話」の必要性を説いた人物であり、「教師はいらない。教師は知識や言語を押し付けるのではなく、一つの考え方を提示した上で対話の場を提供し、教育を受ける側はそれらを織り交ぜて自ら考え、自ら状況を改善するために行動できるよう導く役割を担っている。
自らを取り巻く環境を批判的に考察し、課題を解決していくことによって困難から解放されることが学びであり、そのためには対話が必要不可欠だ」と説いています。
西村:ICUの「Critical Thinking」とは、自己相対化ができるということに他なりません。
自分がいる社会、自分が思っていることが絶対ではないという立場から他者と対話することができるといいうことは、自らの地位が脅かされることがない強さだと思います。
あらゆる価値から自由になるということですね。このような"双方向性"を実現するためには、もちろん教師と生徒の関係が水平でなければならない訳ですが、ICUの授業スタイルと非常に近い考え方だと思いませんか?
山本:少人数であることが対話をどんどん活性化させる。
確かにそれは感じます。水平性ということについて言及するならば、どんな高い役職の教授の方が言う意見だったとしても、それを鵜呑みにする学生はいないのではないでしょうか。
それぞれに「そういう意見も確かにあるが、私はこう考える」といった学生が多いですし、先生方もそれを否定しません。まさに水平な関係性が保たれているのではないでしょうか。
また対話が活性化されるもう一つのICUの要因が「少人数であること」だと思います。それは授業の場に限らず、日常的にあらゆる場所で教員と生徒のDialogueが自然発生的に始まることは非常に貴重な体験です。
平和を示す指標の一つ、笑顔
西村:粘り強い「対話」で分かった互いの「与えられた歴史認識」。
笑顔は、理屈ではないところでの平和を表す一つの指標だと感じています。私は学生時代に「日韓学生フォーラム」の歴史部会に参加した経験があります。
日本人学生と韓国人学生がそれぞれ数人ずつ集まりディスカッションをするのですが、ご存知の通り、過去の歴史認識においては互いの国に対してネガティブな印象を持っています。
非常に緊張した状態からディスカッションがスタートしますので、この討論はどのように決着するのか誰も分からないような空気でした。しかしそんなある日、ふと互いの国の歴史の教科書を比べてみたことがあり、そこには驚くべき発見がありました。
例えば過去の朝鮮半島の植民地化に関する記述において、日本の教科書はコラム程度の扱いであったのに対し、韓国では一種類の国定教科書しかなく、そこに何十枚にわたるボリュームで記述されていました。
これには日韓互いの学生が驚きました。日常的には意識していない部分で、我々は偏った情報を誰かに与えられ、それを鵜呑みにしてきたのではないかと気付いたことで、急速に緊張状態から解放されていったという経験は、先程の「自由になる」というお話と通づるものがあります。互いの立場を理解した上で、互いに平和だと思える未来についての会話がはじまり、そこでようやくその場に笑顔が溢れました。
この経験こそが、平和研究と向き合う私の"原点"と言えるでしょう。
対談を終えて
山本:平和は決して「ゴール」ではない。
冒頭で私は「今の日本は平和と言えるかもしれない」と言いましたが、地球規模では平和とは言えない。日本以外の国に目を向けると、貧困で苦しむ国や紛争地域など、様々な状況の国があり、全ての人々がその状態の改善を求めるでしょう。
ただ、そのような状況に置かれている人々の中にも「その生活の中での幸せ」はあるはずですし、「平和」を感じる瞬間もあるはずです。
平和とはやはり状態であり、取り組み続け、求め続けなければならないことであって、ゴールでは決してないと感じています。これまでの人類の歴史の中で、平和が達成されたことが無いことから考えてもそう言えるのではないでしょうか。
西村:「世界へ想いを馳せることができる力」をつけてもらいたい。
そうですね。平和とは我々個人から切り離して、「あたかもそこに存在するモノ」「国家の状態」のように実存するものではないといえます。一人ひとりが関わり、享受できる状態です。
「平和を求め、日々生活できている状態」「どんな状況の人々も、明日のことを考え、笑えるようになる」ことが平和である、とでも言えるのではないでしょうか。そのためには法の力も必要でしょうし、場合によっては国際機関による介入も必要でしょう。
しかし、俯瞰的に見れば国家としては平和に見えるかもしれないが、国民一人ひとりは果たしてそうだろうか、と疑問が残ることも事実です。
先に述べたように、個人が周囲で起きていること以外の世界へ想いを馳せることができる、「自分もその一部である」と認識することが、笑顔への第一歩ではないでしょうか。
この記事は、2015年に特設サイトで公開したものを一部加筆修正し再掲載したものです。
―ICUで、あなたの「問い」を聞かせてください。
ICUの学び Introduction