Dialogue about Human Rights「人権」について
公開日:2024年02月28日入学時に「世界人権宣言」に署名し、
平和を希求することを約束するICUにとって
「人権」や「差別」といった問題は
避けて通ることのできないテーマといえるでしょう。
ここでは、ICUの31のメジャーから
「メディア・コミュニケーション・文化」と「経営学」の視点を通して、
「人権」や「差別」について身近な問題から掘り下げていきます。
有元健准教授
(担当メジャー:メディア・コミュニケーション・文化メジャー)
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飯塚千晴
(メディア・コミュニケーション・文化メジャー、経営学マイナー 教養学部4年当時、ICU高校卒)
Chapter1
例えば、スポーツにおける人権。
いまだに世界のスポーツスタジアムでは
黒人選手に対する差別的な言動が後を絶ちません。
また日本でも排外主義を表現する
横断幕が張られるという事件がありました。
スポーツは人々の熱狂を生み出すイベントであるだけではなく、
特定の人々がその肌の色や民族によって差別されたり
排除されたりする現場にもなっているのです。
あなたなら、どう考えますか。
飯塚:「スポーツの世界は平等・公平で差別は無いはずだ」と思っていた私が受けていた衝撃は大きかった。まず私が経営学に関心を持ったのは、父の仕事の影響かもしれません。経営者としての父を見ながら、将来的に自分も経営に携わりたいと感じるところがあったのです。
子どものころ父の転勤に伴い、アメリカの小さな村に住むことになりました。そこは圧倒的に白人の住民が多いエリアで、私たち日本人家族は周囲の目から見ると異質に映ったのかもしれません。今思うと差別的な態度を取られていたのだと思います。
ただ、「スポーツの世界は平等なはずだ」と心のどこかで信じていた私にとってショッキングな出来事が起こりました。アメリカではチアリーディング部に所属していましたが、そこで応援中に観客席からハンバーガーを投げつけられたのです。もう何が起きたのか、なぜそんな目に遭うのか理解できませんでした。
「メディア・コミュニケーション・文化」の視点
「スポーツは集団的なアイデンティティ」を作るという性質がある。
有元:スポーツというものは一見すると平等な参加が謳われていますが、実際には多くの側面で「私たち」の意識を形成する文化です。たとえば選手には男/女の区別、健常者/障がい者の区別があります。また、ワールドカップやオリンピックを見るとわかるように、あるチームを応援する「私たち」も生み出します。この「私たち」の意識が生み出されるとき、往々にしてそこに含まれない人々を「あいつら」として排除する意識も生み出されるのです。
「経営学」の視点
経営的な視点においても、人権問題は無視できない。
飯塚:経営の視点から述べると、コストと企業の収益という点においてはそれは避けられない考え方だということはよく理解しているつもりです。ただ「本当にそれでいいのか」と悩んでいることも事実です。
有元:飯塚さんが受けたその差別的経験にも関連しますが、ヨーロッパのサッカー場でも黒人選手にバナナが投げられるようなことがいまだに生じています。これは明らかな人種差別ですが、世界のどこか遠い国の問題でもないのです。つい最近日本のスタジアムでも、外国人を排除するようなメッセージが貼り出されて問題になりましたね。スポーツというものは一見すると平等な参加が謳われていますが、実際には多くの側面で「私たち」の意識を形成する文化です。たとえば選手には男/女の区別、健常者/障がい者の区別があります。また、ワールドカップやオリンピックを見るとわかるように、あるチームを応援する「私たち」も生み出します。そして、この「私たち」の意識が生み出されるとき、往々にしてそこに含まれない人々を「あいつら」として排除する意識も生み出されるのです。私はスポーツの現場におけるこうした出来事は、一般社会の「排他的なテリトリー意識」のようなものが映し出されていると考えています。飯塚さんの例もそうですし、日本のスタジアムの例もそうですね。
これは「この空間には同じような人間しかいてはいけない」という考えが文化的なレベルで働いているということです。でもこのような考え方は、スポーツという文化的な領域だけではなくて、例えば「経営」という経済的な領域においてもしばしば見ることができます。労働者を雇う場合にも、例えば移民の人々は短期的・一時的な労働力として考えられる傾向にあります。つまり、移民の人々はこの日本に共に暮らしていく「私たち」には含まれず、一時的な労働力の提供者に過ぎないわけです。ここには根強いナショナリズム、そして人種差別の問題があります。なぜなら「この空間に長く住みついてよい人々」とそうでない人が、国籍や民族という枠組みで区分けされるからです。そしてその結果、そうではない人々は、先進国にとって都合のよい、一時的で安価な労働力としてのみ存在が許されるということになってしまう。もういらなくなったから帰ってくださいと、常に言われる危険があるのです。当然これは、「人権」と「差別」の問題になりますよね。
また一方で「コスト」に関する問題を、グローバル企業を例に考えてみましょう。例えば、ある企業がある途上国の工場にシューズの生産を依頼したとします。しかし翌年にはより安価に生産を行う別の国の工場と契約を結ぶわけです。自由主義の経済論理では、より安いコストで生産できる工場に委託するのは当然の行為です。しかし問題は、それによって最初の工場の労働者は突然職を失ってしまうということですね。グローバルな経済利益の追求は、ともすれば非人道的な経営にもなりかねません。そのときに生じるのがグローバルな不平等性、難しい言葉では、階級構造です。
飯塚:先生の言われる「同質性」はとても怖いと感じます。これは日本だけではなくて、世界中で起きている現象ですね。経営の視点から述べると、コストと企業の収益という点でそれは避けられない考え方だということはよく理解しているつもりです。ただ「本当にそれでいいのか」と悩んでいることも事実です。現場で実際に働いている人々の文化的背景や人権の問題が、そこで必ず表出することは予想できますし、資本主義社会において、単純に「安価な労働力」を求めるだけの経営を私はすべきだと思えません。
ただ、一方で企業間の競争が激化していけばいくほど、経営的な立場から「安価な労働力」にシフトしなければ世界と戦えないというジレンマも理解しています。それだけ今私たちが生きている時代というのは、「人権を守らなければならない」とは言うものの、それがどう実現されるのか、そのプロセスが全く見えない社会であると思います。
有元先生は「メディア・コミュニケーション・文化(以下、MCC)」で教えていらっしゃいますが、将来的に経営に携わるかもしれない私が「MCC」メジャーに興味を持つようになったきっかけは、「差別や人権侵害を生む文化はどう作られていくのだろう」という疑問を持ったことです。その根本を捉え、問題解決に向き合わなければ、私の理想とする企業の姿にはならないだろうと考え始めました。今では単に「企業を経営する」ということ以上に大切な価値観に出会うことができたと感じています。
「世界人権宣言」に署名する大学としての責任。
1953年4月29日、ICUの最初の入学式以来、在学生は国際連合が採択した「世界人権宣言」(1948年12月10日 国連総会決議により採択)に従って大学生活を送る旨を記した誓約書に署名することが慣例となっています。 この意味は、「人権」というテーマについて考える際にも、またICUで学ぶ学生・ICUで教壇に立つ教員一人ひとりにとっても大きな意味を持つものだといえるでしょう。
差別や人権侵害の問題を解決するためには、つねに「世界人権宣言」に立ち返らなければならない。
Chapter2
有元:世界人権宣言は、私が学生に対して発信する「企業倫理や国益だけが優先されてはいけない」というメッセージを強く後押ししてくれる。
グローバル資本主義の論理では、実際に「企業利益が最優先」になっている側面があります。
また国家も「国益」や「公益」という言葉を使って、国境の内側の富を増やすことに貢献できる人間は受け入れ、できそうもない人間は受け入れないという体制をとっています。
しかし、「世界人権宣言」はまさに世界の人々の人権が同様に保障されなければならないという宣言です。
ですから、「世界人権宣言」を理念の中核に据えるICUの教壇に立つ身として、「企業利益や国益が人々の人権に優先されてはならない」「我々は平等に1人の人間であり、排他的な思想は間違いである」というメッセージを発信できるのです。
飯塚:ICUでは、全ての人間が等しく平等であるという空気がある。
正直、ICUに入学するまで「世界人権宣言」に深く触れる機会はありませんでした。自分自身の人権について日常的に考える人も少ないのではないかと思います。ただ、ICUに入学したことを機に改めて自分自身の経験を振り返ることが多くなったと感じます。
ICUは様々な国の、様々な文化や価値観が交わる場所だと思います。
だからこそ、その中で日本人である自分の人権、また世界ではマイノリティであるとされる友人達の人権についても考える機会が非常に多くありますし、それら全てが「世界人権宣言」の下では等しく平等に扱われるというメッセージには大きな力があると感じています。
将来、私が父の後を継いで経営する立場になったとします。
その場合、ICUで「世界人権宣言」を肌で感じたからこそ、単なる利益追求ではなく、労働者や取引先の人々の人権に配慮した経営をしなければならないと思っています。
有元:自分の権利は、他者の権利と共にある。
「世界人権宣言」を起草したエレノア・ルーズベルト大統領夫人が、ICUの献学の折にキャンパスを訪れ、このように言ったという記録があります。
「Anyone's right is always conditioned by the rights of other people.」
「自分の権利というものは、つねに他者の権利と共にある」とでも訳しましょうか。それを受け入れながら、認めながら共に生きていくことこそが、ICUの学びの核にあると言えるのではないでしょうか。自分をリスペクトし、それと同じぐらい他者をリスペクトする。そのための学びを提供するのが「MCC」だと意識していますし、今回は経営学の視点と対話することで、より人間的な経営のあり方を共に考えていくことができるのではないかと思いました。「世界人権宣言」を読み解いていくと、前半部は他者に対する「暴力の行使」を制限しています。個人が暴力の被害者にならないことを強く謳う宣言になっていますね。 ですが後半の23条以降では、経済のレベルで搾取をしない、させないという宣言になっているのです。 ある特定の人種や民族、あるいは性別の人々が、それが原因となって不当な暴力の被害者にならないような社会、そして同様にそれが原因で経済的に搾取されることがないような社会を目指していかなくてはなりません。 ICUで学んだ飯塚さんが経営者の立場になったときは、ぜひ「世界人権宣言」に書かれている他者の権利、他者を他者として受け入れることの理念と、経済レベルでの倫理感を持ちながら社会に貢献していって欲しいと願っています。
「人権」を身近な例で考えてみましょう。
「勝ち組」と「負け組」という言葉があります。
有元:「勝ち組」というのは、弱者を蹴落として、自分が勝者のポジションを獲得することです。
びっくりするのですが、この「勝ち組」という言葉は小学校低学年の子どもたちでさえ使っているのです。
逆説的ですが、この言葉には「他者」が見えません。
一見「勝ち組」は「負け組」という他者を意識していそうですが、これは単に自分の位置を確認する道具としての他者であって、自分と同じだけの資格を持ってこの社会に生きていける人間として認めているわけではないからです。
さらに、社会には「勝ち組」「負け組」という考え方を正当化するような言葉が存在します。
それは「自己責任」です。
現代社会では、勝ち組になりたい人の数が増えています。経済を含めいろいろな分野で活躍することを目指すのが悪いのではありません。問題は、そのときに大多数の成功できなかった人々が軽んじられることなのです。ICUで「世界人権宣言」にサインするということは、こういったレベルでも他者との関係性を大切にするという自覚を持つことだとも言えるでしょう。
対談を終えて
飯塚:「小さな輝き」を大切にしたい。
「勝ち組」と「負け組」のお話、確かに先生のおっしゃる通りです。
「何をもって勝ち」とするか、をまず考える必要があるのではないでしょうか。
私が将来もし経営に携わるとすれば、理想の企業のイメージは「小さな輝き」。その輝きは小さいかもしれないけれど、一人ひとりがしっかり輝いている、そんな組織を目指したいと思います。
私はICUで「人」を学んだと断言できます。
それは、例えば「グローバル社会」ということでもそうではないでしょうか。語学以上にグローバル社会では「人と人」の関係性が重要だと感じています。市場調査などで入手できるデータ以上に、「人同士の価値観の共有」が無ければ真の意味で海外と対話はできないと思うためです。
ICUで「人」を学んだからこそ、私自身も「人」や「心」の価値観に気付くことができたと感じています。
有元:教員には、学生に「倫理的に生きる技術」を伝える使命がある。
実は、現代社会において「勝ち」とは「お金をたくさん稼ぐことじゃない」ということは誰もが知っていることです。幼稚園ではブランコは順番に乗りましょうと教わるし、お菓子を独り占めしようとする子がいたら大人は「みんなで分けようね」というはずです。そして人間味のないマネーゲームの虚しさも多くのことが語られてきました。つまり、倫理はみんなわかっているんです。あとはその倫理をいかに手放さずに生きていけるかということではないでしょうか。
そしてそのための技術を、私たち教員は伝えていかなければならないと思います。
飯塚さんも、将来経営者になったとしたら、ICUでの学びを活かして心を失わない経営を行ってくださいね。
この記事は、2015年に特設サイトで公開したものを一部加筆修正し再掲載したものです。
―ICUで、あなたの「問い」を聞かせてください。
ICUの学び Introduction