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創立記念大学礼拝を挙行

公開日:2026年6月11日

6月9日、本学礼拝堂にて創立記念大学礼拝が執り行われました。

この創立記念大学礼拝は、1949年6月15日、静岡県御殿場のYMCA東山荘で開催された大学組織会協議会(御殿場会議)に集まった日本と北米のキリスト教界の指導者たちによって「国際基督教大学」が正式に創立されたことを記念して毎年執り行われています。 この日は、理事会および評議員会が組織され、大学設立の基本方針、教育計画の原則が決定され、本学にとって記念すべき日です。

礼拝は、オルバーグ, ジェレマイア宗務センター長代行の司式のもとに始まり、『讃美歌21』第394番「信仰うけつぎ」を歌い、そして「マタイによる福音書 5:3-11」が朗読され、本学岩切正一郎学長が「創始者たち」と題したメッセージを述べました。

以下、岩切学長メッセージ全文

ICUの創立記念日(Founders' Day)は、正式には6月15日なのですが、それを記念する礼拝はチャペルアワーの日に行われます。今日はその記念礼拝を兼ねたチャペルアワーです。
チャペルアワーの今年度のテーマは「イエスはだれ?」。その質問の形を借りて、ICUのFoundersは誰?と問えば、設立への第一声を合衆国であげたジョン・マクリーン牧師や、湯浅八郎初代学長を始め、多くの方々の名前が浮かんできます。それでもし私たちが、大学創設を決めた1949年6月の御殿場会議へとタイムトラベルして、そこにいる創設者の方々に、皆さんがICUのFoundersですね、というと、その人たちはたぶん首を横に振り、いやいや、創設者は、自分たちがその内で働いているイエス・キリストです、と答えることでしょう。
私たちはFounderである主イエス・キリストに、そしてその僕(しもべ)として献身したFoundersの先達に感謝を捧げます。

1949年から数えると77年、最初の入学式が行われ献学された1953年から数えると73年のあいだ、創立のミッションは脈々と受け継がれてきました。
先月行われたHomecomingのテーマは「つながる」(Power of connection)でした。世代を超えて人々はつながり、ICUはそのつながりのなかで変化し発展してきました。
新しい建物もできました。Troyer Memorial Arts and Sciences Hall はそのひとつです。この建物は、その名の通り、初代学務副学長をお務めになったDr. Maurice Troyerを記念しています。Troyer博士は、1949年6月に開催された御殿場会議のメンバーで、まさにfoundersの一人でした。

 It is my honor today to announce that Maurice and Arvilla Troyer's granddaughter Kate Baldor and her niece Jessamyn Rising are among us today. May I invite our honored guests to stand and be recognized? It's our great joy to welcome you at ICU in this Founders' Day Chapel Hour. We are also grateful to you for your love of ICU and we would like to express our gratitude for your generous donation. Thank you very much.

私たちは今日、過去の出来事を記念しているのですが、その出来事は、過去の一点に固定されているのではなく、ゆかりの人々を通じて、現在へとつながり、現在のなかに過去は息づいています。そして未来へとつながって行きます。この絆を大切にしたいと思います。

2週間ほど前、私は長崎で開催されたPeace-preneur Forumで講演をしました。「対話」がForumのテーマで、それについて文学とリベラルアーツの観点からお話しました。
リベラルアーツにとってとても大切な「対話」、dialogueは、西洋演劇の世界では、紀元前6世紀にギリシャで始まったとされています。最古の悲劇詩人であるThespisという人がdialogue形式の劇を始めました。Thespisは、合唱隊から一人の俳優を分離させ、異なる思いを抱く人物と人物が話をする形の劇を始めたのです。
私は西洋古典学には門外漢なので、Forumで自分の話そうとすることが間違っていないか、原稿を佐野 好則先生に見ていただきました。Thespisはみずから俳優をつとめたのだと私は思っていたのですが、佐野先生によると、Thespis自身が役を演じたとは必ずしも言えず、俳優という存在をつくりだした、と言う方が良いとアドバイスしてくれました。最後に頼りになるのは、やはり専門家の意見です。

さて、古代ギリシャではそのような対話型の演劇が始まるいっぽうで、紀元前5世紀には、プラトンが書き記したソクラテスの対話型の哲学、あるいは知を愛し求めること、も実践されていました。知ることを愛して対話したソクラテスですが、皆さんもよくご存じのように、彼は、その思想によって若者を腐敗させ、国家の認める神々を認めずに、ダイモーンのたぐいを祭ったという罪で裁判にかけられ、死刑になりました。リベラルアーツの根幹にある対話をしていてどうしてこんな結果になったのだろうと、あらためて不思議に思い、久しぶりに『ソクラテスの弁明』や『クリトン』、『パイドン』を読み返してみました。
あらためて気がついたのは、ソクラテスに反感を覚えていた人々には、自尊心というものがあったということでした。「みんなの、「知っている」という自尊心をはいでしまったので、みんなから憎まれている」(『ソクラテスの弁明』、田中美知太郎訳)とソクラテスは語っています。ある事をほんとうは知らないのに知っていると自惚れていることは、いわば、真理の前で眠り込んでいるのと同じです。それで彼はみんなの眠りを覚ます役目を果たすのですが、そのような自分をアブにたとえ、自分は「馬をめざめさせておくアブのようなもの」(『弁明』30-E)と言っています。ソクラテスに批判された人たちは、「眠りかけているところを起こされる人たち」(31-A)のように腹をたてる、と彼は言っています。
目覚めさせてくれる言葉は、自分は無知だと知っている人にとっては、知る悦びを与えてくれる喜ばしい言葉なのですが、それによって自尊心で支えられている自分のイメージを壊されてしまう人にとっては、腹立たしい言葉です。

ICUがを対話を重視するリベラルアーツを創立当初から実践できているのは、相手よりも自分は優れているのだという自尊心を持たず、「心の貧しい者」(「マタイによる福音書」5:3)として話をする、という精神があるからだと思います。

対話には奇妙な性質があります。『クリトン』を読んでいてそのことに気がつきました。二人の人が対話をするということは、つまり二人はそれぞれ相手とは違った考えを持っているということに他なりません。
それでいて、話ができる以上、何か同じものを求めている、という共通の基盤のうえでその対話はなされています。通じ合っていながら違ってもいる。違ったところがなくなれば、互いが互いのクローンのようなもの、しゃべっていることはモノローグにすぎなくなります。いっぽう、通じ合っているところがなくなってしまえば、対話は不可能になり対立が際立ちます。
対話しているとき、自分たちはどこで通じ合っているのかを、ときどき意識的に捉え返しておくのは大事なことだと、私は感じました。
通じ合っているもの、それはたとえば、「ただ生きるということではなくて、よく生きると言うことが大切だ」(『クリトン』48-B)といった認識であるでしょう。その点では共通しつつ、では具体的には何をもって「よく生きる」というのか、というところで、いろいろな意見が出てきて、対話が始まります。目指す対象がまったく食い違っていたら、対話は成り立ちそうにありません。

今、世界では、自分になされた不正の仕返しに不正をしかける、ということが大っぴらに行われています。ソクラテスは、もちろん現代のことを言っているわけではありませんが、一般的に、不正の仕返しに不正をしかけるのは良くない、と考えていました。ところが、そう言いながらこんな思いを披露します。

「こういうのは、ただ少数のひとが考えることなのであって、将来においても、それは少数にとどまるだろう。だから、ちゃんとこう考えている人と、そうでない人とでは、いっしょに共通の考えをまとめて行くということはできないのだ。お互いに、相手の考える案を見て、軽蔑し合うにきまっているのだ。」
(『クリトン』49-D. 田中美知太郎訳 )

こういうシニカルな一面があることに、私は今まで注目していませんでした。

何もかも自分たちに引き寄せて考える必要はないのですが、あえていえば、リベラルアーツには、この「少数派」のところがあります。馬にとってのアブのようなところ。眠っている人をわざわざ起こしてしまうところ。 わざわざそんな、人に —— 人といっても、ここでは、自尊心に満ちた甘い自己像にひたって眠っている人のことですが —— 迷惑がられるようなことを何故するのかというと、それは新しい知識に目覚めれば、それが本当に良い知識なら、魂が浄められていくと知っているからです。本当の知識は人を謙虚にします。

ICUが創立以来実践しているリベラルアーツの根幹には、ソクラテスのいう「知を愛し求める生き方」(『弁明』28-E)と、キリスト教的な謙虚さと隣人愛があります。
時代のさまざまな困難や不条理のなかにあって、私たちはこれからも、創立時に掲げたミッションに応えつつ、リベラルアーツとキリスト教という基盤のうえに、日々みずからを新しくする、対話のあるキャンパスを創って行きたいと思います。